きっと、気付かなかった。

知ろうとも、しなかった。

それなのに、君は簡単に私の心を、こじ開けてしまうから。


Eye for eye


「先輩、これ、」
「あ、はーい」
 高校三年生、五月某日、新緑の季節である今日、日差しは眩しく、ひどく暑い。Tシャツの首の部分をぱたぱたと揺らして風邪を送り込むけど、効果はないみたい。少しため息を吐いた瞬間、一つ下の後輩に声をかけられた。

 短い黒髪、がっしりとした身体付き、何を考えてるかわからない、その無表情。
 だけど一年のお付き合いがある私からすれば、そんなのは特に気にならない。軽く頷いて、彼の手の中のタオルを受けるとさっさと行ってしまった。苦笑して、ちらりとシンプルな青いタオルを見つめる。
 ……名前、書いておけってことかな。多分、そういう意味なんだろう。予測をつけて軽く頷いた。
 そんな時、ふと声がかかる。
「先輩、すごいですよねー」
「んー?」
 誰かと思い顔を上げれば、今年わがサッカー部に入ってきた、可愛い可愛いマネの後輩ちゃん。元気でノリのいい彼女は、部員ともすぐに馴染めてるみたいだけど。
 どうやら、先ほどの彼――西宮 京(にしみや けい)くんとは上手く行っていないらしい。曰く、「雰囲気が怖い」だとか。
べっつに話してみると多少興味のあるなしがハッキリしてるくらい、のマイペースな奴なんだけど。ま、顔だけ見れば厳ついのかもな、と三年と楽しそうに話してる横顔を見つめた。
「ていうかさー、全然京くん怖くないって」
「いや、それもなんですけど」
 それも、って顔怖いの前提かい。
「今、主語とか全然抜けてたじゃないですか。何でしてほしいこととか分かるんですか?京先輩、あんまり何してくれーとか言わないし、無表情なのに」
 あーそっちか、なるほど。後輩ちゃんの言いたいことがやっと分かって、大きく頷きながら、マジックで名前を書く。
 確かに、京くんは無表情だ。というか、初対面の女子に対しては。あんまり女の子が得意じゃない上、彼は自立精神が強い。だから怪我してもすぐには言ってくれない。私は一年分のお付き合いがあるので軽いジョークも交わせるし(というか馬鹿にされてる)、何考えてるかも割と分かるんだけど、やっぱり入りたての子にはまだ、難しいみたいだ。
 苦笑して、ただ、一言。
「ま、付き合い長いからねー」

とだけ言っておいた。

 京くんは、確かに一年前はどんなに話しかけても素っ気ない返事ばかりの冷たい後輩だった。だけど、夏休み入る前くらいには普通に話してくれて。その頃、GKとして素質があった彼は、一年ながらスタートメンバーの仲間入りを果たしていた。だからなのか、単に気安い私の人間性なのか。私に対して、割と横暴な態度も増えてきた。と、ゆーか先輩扱いじゃなくなった、というべきか。最初の頃こそ、文句をつけることもあったけど、その内諦めた。たぶん、すぐに相手にしてしまう私の精神年齢の低さと、先輩相手に堂々と渡れる彼の自信のお陰だろうと分かったからだ。まぁ、一応敬語は使われてるのでそれで譲歩してあげることにした。
 ちなみに、私が彼を名前で呼んでいるのは、何てことない。彼と同じ二年生に、同じ名字の人間がいるからだ。だから私にとって彼の存在って言うのは、ちょっと小生意気な後輩、だったのだけれども。

 そんな関係が僅かに変わったのは、ほんの三ヶ月前。春休み中のことだった。
 いつも通り、部活を終えて帰ろうとした、時。そのころ私は京くんにほんの少し、冷たくされていた気がして。気のせいだと言われれば、それまでかもしれない。
 だけど、それだけじゃなくて。
 一週間ほど、私は続けてミスをしてしまった時期だったから。呆れられてしまったのかもしれない、そう思った。

 彼は自分に厳しい。だからこそ辛い練習にも耐え、あんなに上手にプレイができるのだと思う。だけど自分に厳しい人間とは、得てして他人にも厳しい人間、ということで。その一切の妥協を許さない姿勢は、マネージャーをも含めていた。あまり気が利くタイプでない私は、彼に眉を顰められることもしばしばあった。
 でも、今度は。

「駄目、なのかもなぁ……」
 
もう、認められることはないのかもしれない。意外に彼に懐いていた私にとって、その事実は重く胸に沈んだ。
『京くーんっ』
『……なんすか気持ち悪い』
『なっ、気持ち悪いって何よそれー!』
『言葉のまんまです』
『ちょっ、』

  そんな軽口のやりとりも、もう出来ないのか。何故だかそれは、時間を経るほど私の胸に食い込む痛みになっていったんだけど。

「――何死にそうな顔、してるんですか」

 後ろから聞こえた、呆れたような声音。一瞬ビクリとした後、恐る恐る、振り返った。そこには、気怠げに私を見つめる、京くんの瞳。プレイ中は強い光を帯びたそれは、プレイが終わった瞬間、途端に眠そうな、気の抜けた色になる。救いだったのは、決して嫌そうな色は浮かんでいなかったことだ。それにホッと息を吐きながら、苦笑を浮かべた。
「……何、今日早いんだね」
「俺もいっつも居残りしてるわけじゃないですから、」
 興味なさそうに口にしながら、さっさと前に歩んでいく。慌ててその大きな背中に向かって行き、小走りで横に並んだ。ちらりと横を歩く私を見て、また視線を前に向ける。
 その時、彼はポツリと零した。

で?」
「、え?」
「何で、んな酷い顔さらして歩いてるんすか、って聞いたんですけど」
「……あ……」
 
無意識に避けた、問の答え。それが自分であることに、彼は気付いているんだろうか?少なくとも、私からそれを言おうとは、思ってもみなかったんだけど。口ごもる私を、京くんはいつも通り、興味なさげに見つめて。
 そして、ほんの少し意地の悪い笑みを、口元に浮かべた。
「ま、先輩がうるさくなくてこっちは大分楽ですけど」
「、っは!?ちょ、元気出してください、とか言えない訳!?」
「そういうのがお望みなら彼氏にでも言ってくださいよ」
「意地悪っ」
「何が?」
 ひどい悪態に、思わず応じてしまう。嫌みったらしい笑顔のまま、吐き出される、嫌味な言葉。ニヤニヤしながら言われた言葉に、ぐっと思わず詰まってしまうけど。今更、怒ることもできなくて。やけくそ気味に、私は叫んだ。

「〜〜私がっ生まれてこの方彼氏いないのっ、知ってるくせにっ!」
 
それを聞いて、京くんはそれはもう、愉快そうに笑っていたのだけれど。

 思えば、その時からかもしれない。いつも冷たくて私に無関心な彼が、分かりづらい励ましを、くれた日。京くんは基本的に、興味のない人間に自分から構いになんて、いかない。だから私、嫌われてないんだ、って思ったとき。どんなにホッとしたか、君は知らないでしょ?
 今まで、ただの後輩だった京くんが、お気に入りの後輩になって。そして、『気になる』後輩になる日は、そう遅くはなかった。
 だけどそれでも。私は、マネージャーとプレイヤーって言う立場から、動けなかった。
 というか、動きたくなかったのだ。今の、みんなが仲良い生温い関係を、崩したくなくて。 
 それに、分からなかったから。自分の気持ちが、可愛い弟分を思う気持ちなのか、一人の男性に対する気持ちなのか。判断が、つけられなかったから。

 ―ピーッ
 
不意に、目の前の現実に引き戻される。ハッとしてみれば、今は練習試合の真っ最中だった。
 いけない、何を考えてるのか。ぱし、と軽く自分の両頬を挟むように叩いて、もう一度、スコアに集中した。
 相手校は、去年の県大会ベスト4だった強豪校。やはり、強い。前半三十五分が経った今、1−0で私達は負けていた。どうやら、崩されているペースをうまく自分達の方に持って行けないらしい。苛々と歯噛みしたくなるような攻防が、しばらく続いて。
「京、来い」
「はい!!」

 ここが勝負時だと思ったのか、監督が、近くでアップしていた京くんに声をかけた。その声にすぐさま反応し、走ってくる京くん。その姿を横目で見ながら、私はじっと試合を見つめる。
 今日は、みんなの調子が悪い。京くんも最初のシューティングの時の調子が良くなくて、スタートにしてもらえなかった。この交代で、何か変わるといいけど……。
 心配に思っている内に、ゲームが一旦止まり、交代になる。
 その時、だった。

「……、」
 ――京くんが、コートへ踏み出す。
 その、広い背中が。私の思っていたのより、ずっと、大きくて。

 不意打ちみたいに、気付かされてしまった。

 交代して、出てきた三年にお疲れ様、と声を掛けながら視線はコートを追う。真っ直ぐにゴールに向かい構えるその姿に、息を呑んだ。
 泥が跳ねても、びくともしない。
 目の前に相手選手のスパイクが迫ろうとも、躊躇せず、ボールを両手で抱え込み。
 それを綺麗なフォームで、遠くに正確に蹴り上げる。
 グローブを嵌めた大きな、手。
 コートの上での、絶対的な存在感。
 そしてその、誰も寄せ付けない、強い瞳。

 ああ、まさか。
 私、馬鹿、じゃないのか。
 だって、何で気付かなかったのよ。

 こんなに京くんが、好きなことに。
 
もう、言い訳なんて出来ない、って分かってしまった。
 あの広い背中に、恋を、していたから。
 誰よりも何よりも、その瞳を、愛してしまったから。

 気付いた思いに、私は誰にも気付かれないよう、小さく苦笑を零し。一点をようやく我が校が決め、前半終了の笛が鳴るのを、遠くに感じていた。


  

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