誰よりも側にいたいと、心から願えた人だった。
誰よりも大切で、誰よりも幸せにしたかった。
貴女が、貴女だけが、俺に幸せを教えてくれたから。

この高い空に響く歌声を、与えてくれたから。


 空の果ての歌 1



 暑い。5月の風は涼しいが、今までずっと部活で走ってきたのに、ここでも更に全速力で走るなんて。よっぽど鍛えた人間じゃなきゃ、喉がカラカラになって汗だくになるのは必然。汗でべたつくYシャツを脱ぎたいが、こんな道端で脱いだらただの露出狂だろう。

 (まぁ、別に見られて吐き気を誘うほど悪い身体でもないと思うんだけどなぁ)
 
それは大分、見当違いの思いだろうけど、ふとそんなことを思った。自分の身体は脂肪たっぷりな訳でもなく、さりとてがっちり筋肉がついている訳でもない。一般的には丁度良い部類に入るのではないかな、と馬鹿馬鹿しい思考に頭を傾けた。
 急坂を登り切り、高い階段を息を切らして走れば、もう、目的の場所は目の前。
「着いた……っ」
 
思わずしゃがみこんでしまう。別にゆっくり来たって急いで来たって、“彼女”は逃げも隠れもしないのに。それでも、久し振りの出会いに多少気分が焦ってしまうのは仕方のないことだろう。ここのところ、忙しくてずっと会えなかったんだから。
 ――やっと、会える。
 髪を伝い落ちる汗は、コンクリートに丸い染みを作った。何滴も何滴も、そうやって落ちていく。その様子をボンヤリ眺めながら、やっと立ち上がる気力が出来たので、ゆっくりと『病院』の扉をくぐった。

「すみません。葉村ひとみさんの病室って、どこですか?」
「葉村……?ああ、あの子ね!!それなら303号室ですよ」
「ありがとうございます」
「ああ、それとくれぐれも無理して声を出させるようなこと言わないでね。まぁ出そうにも出るわけないんだけど……」
 
病院内のクーラーは、冷たすぎず、暑すぎず、まさに快適な温度と言っていいだろう。少しだけ休んで、待合室にいた看護師の一人に、そっと尋ねる。困ったように「なかなか元気すぎる子でね」と口にする彼女の顔には、笑みが浮かんでいる。きっと、いつも通り。自分のペースを貫き、そしてあの笑顔で色んな人に愛されて居るんだろうと。それにどうしようもなく安堵して、ゆるゆると息を吐いた。変わらぬ彼女に嬉しさと、ほんの少しの痛みを覚え、会いたくなる。礼もそこそこに、その場を離れた。身体は相変わらず疲労しているはずなのに、早歩きは段々と小走りに、そして既に全速力で走り出している。エレベーターではもう遅すぎる。ただただ階段を走って、3階に辿り着いたら今度は札を確認しながら歩いていく。314、309、305、……そして、303。
 大きく息を吸い込んで、ドアをノックしようとして、一瞬ためらう。ふと気になって、Yシャツの臭いをかいでみた。……汗臭い。今頃気にするのもおかしい気がするが、一応の身だしなみだ。残念ながら消臭スプレーなんて便利なものは持っていないので、目の前にあった消毒を、丁寧に手に吹きかける。そしてもう一度、今度はちゃんとドアをノックした。いくら待っても返事は無い。まぁ、この病院にいる時点で分かりきっていたことだが。了承はないが、ゆっくりとドアを開ける。毎度ながら、この瞬間が一番緊張する。
 開けたその先には、一人の少女がベッドの上に座っていた。クーラーが効いている室内で、何故か窓を全開にしている。同室の人間に文句の一つでも言われそうなものだが、何故か彼女の病室には、いつも他に誰もいない。もしかしたら、ノックが聞こえなかったのだろうか。開ききったドアを、今度はさっきより強く、叩く。
 ゆっくりと少女はこちらに顔を向けた。サラサラした長い黒髪を、二つにしばり。健康的に焼けた肌を、よく睨んで文句を言っていた。大きな瞳は変わらずにそこにあって。こちらの姿を目に映すと、徐々に華が綻ぶように、浮かんでいく柔らかな笑顔。
 ――ああ、ずっとそれが見たかった。
 我知らず、顔の筋肉が緩んでいくのが分かる。
 変わってしまったのは、少し痩せてしまった身体や、頭に巻かれた白い包帯、頬に張られた真っ白なガーゼ。ああ、いつも部活で見ていたジャージや制服ではなく、今着ているのはチェックのパジャマだ。
 そして、

 少女はゆっくりと手近にあったサインペンに手を伸ばし、一緒に置いてあったスケッチブックを手に取った。サラサラと、文字を書く音だけが部屋に響く。少し間を置いた時間の間、窓から吹き込む風が頬をくすぐった。成る程、確かにこれはクーラーの風よりもよほど気持ちいい。目を閉じていると思わず眠くなってきて、思考が闇の中に沈み始めた頃、ペンを置く音、そして小さく息を吐く音を聞いた。
 目を開いて、少女のそばに少し近づく。笑顔で見せてくるスケッチブックには、子供じみたどこか丸い字が見えた。
『久しぶりっ!!すっごく汗だくじゃない。もしかして、部活帰り?』
「ええ、そうですよ。ひとみ先輩は?ちゃんと元気にやってましたか?」
 
またペンを動かし出す。なかなか会話は進まないが、それでもこの穏やかな空気は彼女がいるからこそで、だったらそれでいいと思う。
『ちゃんとやってました。山口私のこと子供扱いしてない?私だって自分のことくらいちゃんと出来ますよっ』
「あーはいはい、すみませんって。ひとみ先輩の方が年上なんですからそんなことありませんよ」
『ほらまたっ!!』
 
紙を通して、繋がれていく会話の鎖。怒りでほんの少し赤くなる頬が子供っぽくて可愛いと思う。思わず小さく笑い声を漏らせば、睨まれてしまった。別に俺の責任じゃないと思うんだけど。
 だってひとみ先輩があまりに可愛らしいから。とても高3とは、自分の1つ上とは思えない反応ばかり繰り返すから。それが可愛くて愛しくて、零れる笑みすらもう止めるのは不可能になってしまう。
 けれどこれ以上機嫌を損ねるとまずいから、さらりと話題を変えた。
「先輩が居ないから、部活のみんなだらけちゃってますよ?」
『あー。なんか本当にありそうでイヤな構図だわ、それ。山口は?ちゃんとやってるよね?』
「……勿論です」
『反応が遅い!!帰ったらバシバシ行くからね?タイム落ちてたら全員トラック20周だよ?』
「えー勘弁してくださいよ、柳原部長よりよっぽどきついじゃないですか、それ」
 
同じ部活だったため、話題は尽きることはない。陸上部の自分、そのマネージャーである彼女。1年間過ごしてきた、大切な大切な仲間。
 ……けれど、自分にとってはそれだけの存在ではなく。そして、彼女にとっても、それはまた。
 部長の名前を出した瞬間、空気が少し、張りつめた。真剣みを帯びた彼女が、ゆっくりとスケッチブックを持ち上げる。そこに書かれた文字は、少し震えていた。口の端から零れた苦笑は、どうしようもないものだろう。
『――部長は、元気?』
 
真っ直ぐな、射抜くような、それでいてどこか不安げに揺れる。その瞳は眩しくて、悲しくて、知りたくもない現実を、また一つ目の前に突き出されるんだ。一音一音、彼女に刻むように囁く。
「……元気ですよ。ずっと、ひとみ先輩のこと、待ってます。『早く元気にならないかな』って言ってます」
 
そう言うと、満開の笑みを咲かせた。俺一人の力では、決して見ることの出来ない、笑顔。
 嬉しそうにうつむく彼女には、きっと何も見えていない。堅く握った拳も、はっきり歪んだ俺の顔も、……俺がついた、最低な嘘も。でも、例え嘘だったとしても、一時的だったとしても。――彼女の笑顔を守れればいいと、そう思ってしまう一番浅はかな俺が、一番何も見えていない。





彼女が変わってしまったのは、少し痩せてしまった身体や、頭に巻かれた白い包帯、頬に張られた真っ白なガーゼ。
ああ、いつも部活で見ていたジャージや制服ではなく、今着ているのはチェックのパジャマだ。

そして、ずっと側で聴いてきた、その柔らかく、溌剌とした声が、消えてしまったこと。

彼女の声さえここに在れば、俺は今でも君を騙したりなんかしなかったのかもしれない。


  

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