俺すら知らない場所で、ひとみ先輩は俺の心を掴んでいく。
はじめての気持ちに、いつも戸惑って、苦しんだけれど。
でも、貴女がくれるなら、何だって嬉しいんだよ。


空の果ての歌 2



俺とひとみ先輩が始めて会ったのは、一年前の春。陸上部に入部したての頃だった。

* * *

「山口くん。ちょっといいかな?」
「葉村先輩」
 
先輩は陸上部のマネージャーで、俺は部員で。当時、マネージャーは先輩一人しかいなかった。(今は俺と同じ学年のやつが一人、後輩が一人と三人いる)新入生は、まず200mトラックを走らされる。先輩から出された条件を満たすまで、何度もだ。それは時々、単純に15本程度走ることだったり、ベストタイムを出したりと、様々だった。
 あの日は四月なのに真夏日で、いち早く課題をクリアした俺は木陰で寝そべっていた。そこに、ひとみ先輩が声をかけてきたのだ。まどろみかけた思考に、ゆっくりと染み渡る声。閉じていた瞼を開くと、今より髪が短く、肩までしかない髪を揺らして、白いTシャツ姿の彼女が見えた。慌てて体を起こそうとする俺を小さく手で制して、彼女は微笑んで隣にしゃがみこんだ。
「ごめんね、休憩してるところに」
「いえ、大丈夫です。何か用事ですか?」
「あ、うん」
 
謝罪を告げた彼女に、早く話を終わらせて休みたかった俺は、用件を聞こうとした。すると先輩は小さく眉間に皺を寄せて、困ったように、躊躇うように言葉を放った。
「思い違いかもしれないんだけど、……山口くん、もしかして足、痛めてない?」
「っ、」
 ――
あの時は、本当に驚いたのを覚えている。
 部活中に、一度足を挫いたことがあった。その時はすぐに処置をしたお陰で何ともなかったのだが、毎日相当の距離を走るので、古傷が痛むように、足に激痛が走るような感覚はあったのだ。しかし、それを誰かに悟らせるつもりはさらさら無かった。知れれば根性のない人間だと思われかねない。骨の作りが弱い人間である、と。まだ部活に入部して一ヶ月も経っていないうちからそんな弱音は吐きたくないという、些細なプライドだった。それを、見抜かれていたことに、とても驚いて、思わず言葉を失った。そんな俺を見て、ひとみ先輩はため息を吐き、呆気にとられた俺の頭を思いっきり拳で殴った。
「っ、った!!」
「当然の報いじゃない!!選手に一番大事なのは身体よ身体!!悪化させてどうするつもりよ!!」
「……でも」
「でももへったくれも無い!!自分で自分のこと気にかけないで誰が気にかけるの!!いーい!?あたしの目の黒い内は、怪我を隠すなんて真似させないからね!!」
 
情け容赦なく顔を真っ赤にさせて怒鳴り散らす先輩は、とても辛そうな表情を浮かべた。どこか泣きそうで、心の底から俺を心配してくれていることが分かって。何故だか無性に申し訳ない気分になって、小さく頭を下げた。
「すみません」
「よろしい。とりあえずテーピングするから足出して。応急処置しかできないからちゃんと病院も行ってね」
「……分かりました」
「ちゃんと分かればいいんだよ、山口。あ、くん付け面倒くさいから呼び捨てにするね。あたしのことはひとみでよろしく」
「……ありがとうございます、ひとみ先輩」
 
ニッコリと笑った彼女がテーピングのテープを取り出し、俺の足に巻き付け始めたときに、大きな騒ぎ声が聞こえた。
「柳原ナイスファイトー!!」
 
当時の二年のエース、柳原先輩が、自己ベストを出したらしい。他の先輩方が笑って囃したてていて、何秒なのか気になり、ひとみ先輩に尋ねようとすると、彼女は一瞬手を止めて、まるで眩しいものでも見るかのように、目を細めて柳原先輩を見つめた。その表情は先程俺に見せたどんな表情とも違っていて。睫を伏せ、唇を噛みしめるその顔は、真っ直ぐで、切なげで、苦しそうで、やけに儚げで。
 その表情に、思わず俺は、問いを投げかけた。

「――ひとみ先輩って、柳原先輩が好きなんですか?」
「……へぇっ!?」
 
現実に突然引き戻されたように、慌ててこちらを向く顔は真っ赤で、口からは言葉にならない声が漏れだしている。その反応は初々しくて、とても可愛らしくて、失笑してしまった。
「な、な、な、何で、えっ!?」
「いや、見てたら何となく。そうなのかな、と」
「嘘っ、え、ちょっ、い、言っちゃ駄目だからね!!」
「分かってますよ」
「ほ、ホントのホントだからね!?」
 
涙目で慌てる彼女を見て、思わず微笑みが零れる。なのに、反面。胸がとても、痛んだ。心臓が、大きな音を立てていくのを感じた。その表情は自分の目の前にあるのに、自分のものではないことが、歯痒くて仕様が無かった。その感情の説明をつけている内に、テーピングは終了して、ひとみ先輩は歩いていった。最後に小さく『約束だよ』と零し、足早に、振り返りもせず。そのことにも何故か空しさを覚えて、自分の感情が全く読めなかった。
 ――それが、きっと最初の警告音。

 いつも一生懸命で、真面目で勤勉家。部員の応援をいつも全力でしていて、明るくて元気で、笑いかけられると、思わずこっちが嬉しくなる気がする笑顔を持っていて、優しくて気配りがうまくて、時折失敗するけれどそれさえも塗り替える位努力していて、部員よりも楽しようだなんて絶対に考えられなくて。
 そして――

「山口!!」
 
移動教室の前、渡り廊下を歩いていると遠くから呼び声が聞こえた。もう、とっくに聞き慣れた音。間違えようもない、愛しい声。振り返ると、教室の窓から身を乗り出し、笑顔で大きく手を振る彼女が居た。
「やっほー!!」
 
その笑顔に、その声に、その仕草に、ただ愛しさが零れて、小さくため息を吐いて、手を振り返した。




――そして、呆れるくらい無邪気で打算が出来ない。俺はそんな一途で真っ直ぐな先輩が、ずっと好きだった。
例え先輩が誰を好きであろうと、誰のものになろうと、俺は彼女を好きで。
永遠に彼女を裏切ることはないだろうと。

ずっと、そう思っていたのに。

  

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