肩越しに、輝く夕日。
伸びる長い、長い影。
彼女が浮かべる微笑みは、どこまでも優しく、その声音は穏やかだった。
――ただそれだけで、この心が根こそぎ捕られた気がするほど。


                 
Fall In Love


「柳原くん、あのさ。今日の部活、中止になったから」
「ああ、わざわざすまない」
「気にしない気にしない!先生が会議らしくてね。全く、大会前なのにー」

 ざわめく教室の昼休み。クーラーが全教室完備のこの学校では、夏に廊下に出て行く人間は少ない。次の授業の宿題をやっていないと騒ぐ友人達に、ため息を吐きながらプリントを渡す。必死に写すその姿をぼんやり眺めていると、突然呼び出された。ドアを見ると、マネージャーの葉村が立っている。後ろで一つにまとめた髪を揺らしすまなそうにしているその額には、汗がうっすらと光っていた。どうしたのかと蒸し暑い廊下に出て行くと、それは単純な部活の連絡だった。部活の連絡は基本的にメールで来る。どうやら俺から返信が入らなかったので、わざわざ四クラスも離れたここへ来てくれたらしい。謝罪を述べれば明るい笑顔を見せ、顧問へと不満を漏らす。それに思わず苦笑した。こんな七月の暑い時期、外に出るのが憂鬱なのは選手だけじゃないだろうに、こいつはオフになっても素直に喜ばない。それは自分も同じなのだが、全くこのマネージャーはいい根性をしている。もちろん自主練はするんでしょ?そう笑顔を浮かべる彼女に、微笑んだ。
 答えなんて、決まり切ってる。

 小さな時から、走るのが好きで好きで仕様が無かった。風を切っていく感触が、空を駆けていくような感覚が、走り終わった後の爽快感が、たまらなく心地よかった。体力を限界まで使い果たしてもまだ足りないと感じるほどに。……入部してしばらくしてから、部活の連中に、苦笑されたこともあった。
『お前は顔いいんだし、ちょっとは女にも目向けろよ。気付けば陸上が恋人になっちまうぞ?』
 
むしろ自分には陸上というか、走ることさえ出来ればいい。友人はみんな彼女が欲しいとぼやくが、どうにも俺にはその感情が理解できない。この足がある。地面を押しだし、次の一歩を踏み出す。そんな単純な動作にどうしようもなく心惹かれ、魅了される。女子の選手でもフォームが綺麗な選手等には目を奪われることもあるが、終われば何でもない。別に興味が無いわけでは無いが、今は多分まだその時期じゃないんだろうと自分を納得させた。
 気付けば、もう空は茜色だった。汗を拭い、明日の部活に支障を残さないよう帰り支度を始めた。


 バッグを肩に担いで、駅までの道を歩く。閑静な住宅街を抜け、大通りまで歩いていく。前方にうちの高校の制服を身に纏った女子生徒が一人いるくらいで、猫すら通らない静かさだった。
 と、子供が角から走ってきた。家まで向かっているのだろう。真っ直ぐに走って、息を切らしている。もしかしたら門限を過ぎているのかもしれない。そんなことを考えながら歩き、女子生徒を追い抜かす。歩幅の違いか、徐々に距離は開きその子供ともすれ違った。少し眠たい瞼を擦りながら歩みを進めるが、不意に大きな泣き声に足を止めた。
「ふぇぇぇーんーっ」
 
振り返ると、さっきの子供が道路に転がって泣いている。転んだか何かしたのだろう。大声で泣いているので、やたらと頭に響く。とりあえず起こしてやらないと、そう思って体の向きを換えようとすると、俺より子供の側にいた女子生徒が駆けていった。しゃがみこみ、子供を起きあがらせる。手慣れたその仕草に、ぼんやり下に兄弟がいるんだろうな。なんて考えていた。起きてもぐすぐす泣きやまない子供の頭を撫で、制服が汚れることも気にせずに彼女は道路に膝をつく。ズボンに付いていた汚れを払い、俯いていたその顔が上がった瞬間、

「っ、」
 
何故か
「こーら、そんなに泣かないの。男の子でしょ?」
 
急に
「もう大丈夫だよ。痛くなーい、痛くない」
 
息が、出来なくなった。

 視線が引き寄せられるように、その微笑みに集中する。肩にもかからない短い髪、日に焼けていない白い肌、片頬のえくぼ、細めらる瞳、優しい口調。その全てに、心臓が鷲掴みにされたような衝撃を受けて。夕日の中、照らされる彼女は余りにも美しかった。
 不意に、彼女がこちらに目を向ける。真っ直ぐな黒い大きな瞳に捕らえられ、情けないことに動けなかった。俺を見た彼女はふんわりと口元に笑みを刻み、小さく会釈をした。それに驚き、とっさに頭を下げると、慌てて走るようにその場を後にした。

 何故。どうして?
 妙に大きな音で鳴る鼓動に、赤く染まる頬に、自分でも戸惑いを隠せない。
 こんな感情、知らない。今まで感じたこともない。
 苦しいくらいの大きな鼓動に思わず胸を掻きむしり、頭の中に残像のように残る彼女の笑顔を思い返した。
 何かが、違くて。分からないけれど、確かに違くて。
 名前も知らない、学年も知らない女子にこんな訳の分からない感情を持て余している、自分。何だか妙に滑稽で、おかしい気になった。
――今思えば、答えなんて一つしか無かったのだけれど。


  

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