オイシイ関係? 3(前)

 


 秋が近付き、夜には風が涼しくなってきたこの頃。相も変わらず係長にお弁当を渡す日々は続き、時折夕食も御馳走になったりしている。申し訳ないとは思うのだけど、断った時に係長は分かりやすく沈む。表情は変わらないけど、肩を落とし、傷付いた色を瞳に浮かべる。それを見ていると、罪悪感で胸が一杯になって、口が勝手に動いているのだ。わたし自身、係長と食事するのは嫌じゃない、むしろ好きだ。美味しそうなものを食べて綻ぶ顔を見るのが楽しいし、一緒にいる時の空気が落ち着く。もともと御馳走になっているという申し訳なさで断っているのだから、最近では落ち込んだ顔を見たくなくて最初からOKすることもある。
 土曜日の今日は、会社はお休み。友達との約束もないし、今日は家事を済ませてしまおう。平日は忙しいし、付き合いや仕事の疲れで最近は掃除など疎かになってしまっている気がする。
 起きて布団と洗濯物を干し、部屋にさっと掃除機をかけてしまう。お昼を食べて、お茶を飲みながらテレビを見て、午後の予定をぼんやり考えた。そろそろ衣替えをしてもいいけれど、休日の午後と言うのはどうも気だるく、動きたくない。
「……あ、今日雑誌の発売日だ」
 携帯を確認すると、毎月買っている雑誌の発売日。主婦専門の雑誌なんだけど、保存食や家事のコツなど載っていて、参考になる。確か欲しい本もそろそろ発売だったし、本屋に寄るついでに食料の買い出しをしに行こうかなぁ。なんて、考えていると。
 ―ブブブブブ……
「え?」
 手の中の携帯が、震えている。しかも、長い。ということはメールじゃなくて着信だ。
 基本的に友達はメール派の子が多いし、彼氏持ちの子が多いために休日に携帯が震えることはまずない。相手を確認するために、液晶画面を見る。――着信、『八阪係長』。意外な相手に目を丸くしながら、通話ボタンを押した。
「はい、神代です」
『ああ。休日に悪いな』
「いえ、大丈夫です。どうかされましたか?」
 電話の向こう、少しくぐもった低い声。間違いなく八阪係長だ。いや、まあ間違えようも無いんだけど。
『今会社にいるんだが、実は社用のを家に忘れてな。こっちで掛けているんだが、仕事の話なんだ』
「はい」
 うちの会社では現在、社員一人につき一台、社用の携帯が支給されている。仕事の用事がある時は、みんなそちらに掛けることが決まっている。
 係長と一緒にご飯を食べに行った時に、使うかもしれないから、とプライベートの電話番号とアドレスを教えてもらった。だけど今まで一度も使わなかったから、今回の電話にはびっくりしたけれど。そうか、仕事の話か。
 何だか少し、残念な気持ち。多分、休日に仕事の話をしなくちゃいけない、ということから来る哀しみなんだけれど。
『神代に一昨日提出してもらった課題書なんだが、ページが抜けていたんだ』
「え、そうなんですか?申し訳ありません。何ページですか?」
『いや、俺もすぐに確認すれば良かった。十三ページと十四ページなんだが、そのデータはお前のパソコンに入っているか?それなら、すぐにコピー出来るんだが』
 課題書。それは経理部に代々伝わっている習慣で、新入社員にうちの会社の書類のフォーマットなどに慣れてもらうために、定期的に課題を出して実際の書類のように作ってもらうというものだ。仕事の傍ら問題を作るのもなかなかに大変だけれど、後輩に教えるというのは勉強にもなる。それに、問題を作ると言っても自分たちで適当に作る訳じゃなく、直属の上司――つまり、わたしの場合は係長のチェックが入る。この課題書でOKをもらえたら、ある意味新人を抜けたと太鼓判を押されるようなものだった。
 今回問題を作るのは、わたしの番だった。再来週半ばから、係長の研修が立て続けに入るから忙しくなると聞き、月曜日に配布すると言われたから、きちんと見直したつもりだったんだけど。係長に申し訳なくて、小さくため息を吐く。それと同時に、頭をフル回転させた。確か、あのデータは……。
「……あ」
『ん?』
「……係長、本当に申し訳ありません。多分、もうわたしのパソコンには残っていないと思います」
『そうなのか?』
「はい」
 一昨日、課題書を印刷した直後。ファイルを保存しようとした時に、同僚に呼ばれて席を立った。そして戻って来たら、後輩がわたしのパソコンのコンセントに引っ掛かってしまったらしく、電源が落ちていた。幸い他のデータに損傷はなかったものの、課題書のデータは作りかけた途中までしか残っていない。泣きながら謝られたが、わたしも保存をしていなかったのが悪いし、紙媒体として残っているし、まぁいいかと笑ったのだが。
 そのゴダゴダの間に、抜け落ちてしまったらしい。しかも終盤の方ならば、わたしのパソコンには絶対に残っていない。
 そんな風に、起こった出来事を話しながら、携帯片手に、起動してあったパソコンのUSBフォルダを開き、隈なくチェックする。残念ながら課題書のデータ自体は残っていないが、それを作るのに使った下書きやメモ書き、資料はきちんと入っている。ほっと胸をなでおろし、口を開いた。
「今、家にあるUSBメモリをチェックしたんですが、もう課題書のデータ自体は残っていないです、すみません。ただ、使った資料などは残っているので、三十分もあれば同じものを作れると思います。よろしければ、これから会社に仕上げに行っても大丈夫でしょうか?」
『そう、だな……いや、わざわざ休日出勤することもないだろう。今日は他の仕事もあって会社に来ていたから気付いて電話しただけで、もともと火急のものではないから。水曜日辺りまでに提出してくれれば、』
「いいえ、わたしのミスですから。手当も何もいらないので、どうか責任を取らせてください」
 きっぱりと言い切りつつも、少しだけ唇を噛んだ。
 正直に言えば、自分のミスとは言え、これから会社に行くなんて憂鬱だ。それでも、最近課長が休みがちで、その分の仕事を兼任して忙しい係長に負担を掛けたくなかった。毎日残業しているはずなのに、休日出勤をしているという、係長に。
 課題書が火急でなくて良いというのは、本当のこと。それでも、係長はこの忙しい最中にわざわざチェックしてくれた。それに水曜日に提出すれば、後輩たちの課題提出締め切りもその分伸びてしまう。再来週半ばから、今以上に忙しくなる係長に、それこそ火急でなくて構わない課題のチェックをさせるのはあまりに忍びない。
 係長の言葉を遮って鼻息荒く宣言したわたしに、係長は暫し黙る。だけど小さなため息が、電話の向こうで聞こえて。

『――神代は、強情だな』
 呆れたような、優しい声音。何となく、係長は今笑っている気がして。気のせいだろうけど、でも、どうしてだろう。
 今すぐ、顔が見たいと強く思った。

『神代の家は、確か結構離れているんだよな?』
「はい。一時間少々掛かります」
『そうか。俺の仕事も結構あるから、ゆっくり来い。走るなよ』
「……はい。ありがとうございます」
 落ち着いて諭す係長に、返事をする。すでにリュックにUSBを入れて、スニーカーを選び、完全にこれから走る体勢だったのを見過ごされているようだ。『じゃあな』と切られた手の中の電話を見て、苦笑してしまった。
 ……今まで、係長のことを子犬みたいに思うことがあった。それは二人で話している時の係長が余りにも表情豊かで、可愛らしかったからだ。
 今日の係長も、いつもの仕事中とは雰囲気が違った。でもそれは可愛らしい訳じゃなくて、自分よりずっと年上の、落ち着いた魅力的な男性だと思った。そんなの、分かっていたはずだった。係長がモテる理由も全部。だけどわたしは、理解はしていなかったのかもしれない。
「……」
 胸が痛いような、微かに焦げるような。その淡い感覚は、わたしには久しぶりすぎて、何なのか掴めなかった。

* * *

 早足で家を飛び出し、電車に乗る。いつもは面倒でしないんだけど、途中の駅で各停から快速に乗り換えると、十分程度時間短縮出来た。早足でオフィス街を歩く。ちらほらと見えるスーツ姿。案外、休日出勤のサラリーマンは少なくないらしい。守衛さんに頭を下げて、四階へと急ぐ。時計をチェックすると、連絡をもらってからほぼ一時間。途中で差し入れでも買おうかと思ったけれど、真っ直ぐ来て良かったかもしれない。部署の扉を開くと、ブラインドの隙間から差し込む窓の光が、眩しい。そして。
「神代」
 机から、こちらを少し驚いたように見る係長。冷房の効きがあまり良くないので暑いのか、スーツの上着を脱ぎ、黒いストライプのYシャツの腕の部分を捲り上げている。首元のボタンは一つ分外され、ネクタイもしていない。いわゆるクールビズスタイル。露わになった腕はがっしりと太く、夏の間で見慣れたはずなのに、何故か動揺してしまった。
 一息吐いて、係長の方に歩いていく。そして深く頭を下げた。
「遅くなりました。今回のミス、本当に申し訳ありません。以後決してこのようなことがないように、気を付けます」
 社会人の礼儀である、謝罪。これが出来なければ社会人失格だと言ってもだろう。自分の過失をきちんと謝れる人間でいなければならないし、相手が許してくれたとしても、自分を許してはいけない。決意も込めて、謝罪と言うのは大事な通過儀礼だと思うのだ。
 係長はそんなわたしを見て、「神代」と静かに声を掛けてきた。
「はい」
「なら以後、気をつけるように。絶対に同じミスは繰り返すな」
「はい」
 返事をして、身体を起こす。こちらを見つめる係長の真剣な瞳に、しっかりと答えた。
 こんな時、係長は「謝らなくてもいい」なんて部下を甘やかさない。その時は些細なミスだろうと、「失敗しても大丈夫なんだ」という甘い認識が植え付けられた人間は、必ず次のミスをする。そしてそのミスは、徐々に大きくなる。そのために係長は、叱る時には厳しさを持って接する。その姿勢には、心から感謝している。お陰でわたし達は、大きなミスをしないで済むんだ。
 今回は休日出勤になってしまうこと、自分が私用の携帯を使ったことで係長も甘くなってしまったんだろう。でも、怒ってもらえるのは、本当にありがたいことだから。
 係長は一つ息を吐くと、肩の力を抜いた。……疲れているのかな。後で甘いものでも買ってこよう。そんなことを考えていると。
「神代、私服で来たんだな」
「え?」
 係長の突然の言葉に、首を傾げる。少し眉を寄せて困ったような係長の顔に、自分の格好に視線を向けた。
 黒地に胸元に白いレースがあしらわれたポロシャツ、アプリコット色の膝丈プリーツスカート。夜までかかってしまった時のために、ベージュの七分丈カーディガンも羽織って来た。ストッキングもきちんと履いてきた。着替えてる時間もなかったし、今日は割とかっちりした格好だから、大丈夫かなって思ったんだけど。
「もしかして、休日出勤の時って私服駄目でしたっけ?」
「いや、大丈夫だ。杉村なんて短パンにサンダルで来た」
「……それは」
「流石にそれは注意したが」
 一つ上のお調子者な先輩の名前に、苦笑する。係長も顔は変わらないけれど、多分かなり呆れたはず。だけどそれなら尚更、係長の言葉の意味が分からない。尋ねてみよう、と口を開いた。
「じゃあ、早速作ってもらっていいか。出来たら、俺のパソコンにデータを転送してくれ」
「あ、はい」
 だけど係長の言葉に、頭は一気に仕事モードになる。
 自分の机に向かい、パソコンのスイッチを入れる。IDとパスワードを打ち込んで、USBを差し込み、データの確認をして。その頃にはもう、さっきのやり取りは忘れていた。


  

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