オイシイ関係? 3(中)


「お疲れ様です」
「お疲れ。悪かったな、手伝わせて」
「いえ、わたしが無理に言ったことですから」
 ――会社に来てから三時間、データの作り直しは割とすぐに終わったものの、係長の他の仕事はまだまだ残っていて。帰るよう促す係長に首を振って、仕事を手伝わせてもらった。ミスの挽回、という訳じゃないけれど。単純に、お世話になっている上司を残して自分だけさっさと帰るのは薄情者だと思った。
 窓の外は、茜色。時計を見ると、五時を少し過ぎたところ。布団を干したままだけど、今から帰れば十分間に合うだろう。部署の鍵を締める係長を待って、二人でエレベーターを待つ。
「神代、この後の予定は?」
「この後ですか?特に何もないですけど」
「それなら、今日の礼も兼ねて夕飯でもどうだ?」
 今からならそんな遅くならないだろう、と付け足す係長。確かにそうだとは思うけど、わたしは笑ってそのお誘いを断った。
「いいえ、大丈夫ですよ。本当に、わたしがやりたかっただけですから。それに、今日は家でご飯の支度がしてあるんです」
「そうなのか?」
「はい。そろそろご飯が炊ける頃だと思います」
 これは本当だ。特に土日は冷蔵庫にある食材を全部使いきって、料理を作り置きしておく。だから今日は帰ろう。
「……何を作るか、決まっているのか?」
「そうですね、大体は。昨日お隣の方からカレイをお裾分けしていただいたので、煮つけにしようと思います。あと、つるむらさきが久々にスーパーで売っているのを見て、大量購入してしまったので、おひたしにでもして食べようかと」
「つるむらさき?」
「あ、ご存知ないですか?粘り気があって香りも良くて、わたしすごく好きな野菜なんです」
 料理の話は、いつも通り。だからついつい、わたしの口もよく回ってしまう。係長もいつも通り、静かにわたしの話を聞いていた。だからつい、口走ってしまったのだと思う。
「よろしければ、食べに来ますか?」
 多分、何だかんだで疲れていたんじゃないだろうか。休日出勤なんて久しぶりだし、係長の仕事を手伝うなんてハードなこともしたし。大好きな野菜を食べられるので、テンションも上がっていたかもしれない。とにかく、色んな条件が重なっていた。

「――いいのか?」
 係長の承諾という、予想外の条件も。

「……へ」
「……」
 間抜けな声をあげるわたし。そんな中、チン、と軽い音と共にエレベーターが到着する。廊下には電気がついていないので、薄暗い。だけどエレベーター内の電気で、係長の顔がはっきりと見えた。彼はじっとわたしの瞳を見て、答えを待つ。
 ……これは、……え?
 予想外の言葉に、停止していた思考が、ゆっくりと回り始める。
 今のはまさしく、わたしのふざけた言葉に対する、返事だろう。まさか、本気ではないはず。とは思うんだけど、その瞳に冗談の色は見えないし、そもそも係長が冗談を言うはずはない。
「……えーっと」
 内心、だらだら汗を掻きながら、おずおずと口を開く。

 今からわたしの家に係長を招待するということは、問題だと思う。一応部屋は今朝掃除したし、そんなに散らかっていない。だけど人を招待するって言うのはまた別の問題だ。
 でも、今回ミスしたのはわたしで、なら御馳走するべきなのはこちらだ。普段からお世話になっているし、一緒に食べた夕飯などのお会計は基本的に係長が持ってくれている。ここは、素直に頷くべきか。だけどわたしの手料理なんてそれこそ何回も口にしているし、今更お礼になるのか疑問だ。それに御馳走するのと家に招待するのは、また少し変わる気がする。

 悩みに悩むわたしを見つめる係長の瞳。「すみません、冗談です」と言えばことは済むのは分かっているんだけど。
 ――だけど、係長の瞳が、きらきらと輝いている。美味しいものを食べる時と同じ。それを裏切るのは、どうも申し訳ない。
 悩んだ時間は、なかなかに長かったと思う。でも結局は、これもいつも通りなのだ。
「……はい。遠いんですけど、よろしければ」
 苦笑と共に、頷きを返す。それに係長は、柔らかく目を細めた。その表情を見ると、もう何でもいいか、と思ってしまう。係長は、多分、人を頷かせる特別な力を持っているのだ。それには敵わない、と納得する外ない。
 それに係長は男性だけど、そういう意味での心配はほとんどしていない。信頼と言うんだろうか、まぁ係長程の男性がわたしに手を出すとも考えられない。それより心配なのは、係長をお招きしたことが他の女性社員にばれた時のことだ。でも、わたしの使う沿線を使っている会社の人はほとんどいないし、係長が言いふらすとも思えない。だからまぁ、大丈夫だろう。
「あ、でも、係長は車ですよね?」
「いや、家を出る時にガソリンが少なかったから置いてきたんだ。急いでいたしな」
「じゃあ、今日は電車ですか?」
「ああ」
「なら丁度いいですね」
 話しながら、一度扉の閉まってしまったエレベーターに乗り込み、一階へ向かう。
 会社の外へ出ると、夕暮れ時、駅へ向かうサラリーマン達。秋の訪れを感じさせる風が不意に吹き抜けて、わたしのスカートを揺らす。
 何だか、不思議。私服でこのオフィス街を歩いているのも、係長と並んでいるのも、
これから、わたしの家へ向かうということも。
 何だか、とても不思議だった。

* * *

 地元の駅に着いた時には、夕陽はほとんど沈んでしまっていた。
 出口から歩いて十分、途中にはスーパーとコンビニ、ファミリーレストランがある。もう少し行けば大きな病院や自然公園もあるし、家族で住むには良い町だと思う。実際、私の住むマンションにも家族で住んでいる方はたくさんいる。
 七階建てのオートロックマンション、そこの三階に住むわたし。家を見て、係長は少しだけ驚いていた。
「随分、いいところだな」
「そうですか?都心から離れてるので、土地が広いんだと思います。部屋は1Kです」
 階段で擦れ違うご近所さんに挨拶をして、お隣の奥さんにはニヤニヤされて(しっかり誤解は解いておいた)、部屋に案内する。
 考えてみれば、この家に住んでから人を入れたのは初めてかもしれない。会社から遠いわたしの家にわざわざ来る子はいないし、彼氏も大学時代に一人だけいただけで、その後は恋愛とは縁遠い日々だ。やっぱり、不思議。おかしくて笑ってしまうと、係長は首を傾げた。
 わたしの家は割りとゆったりした1Kだ。玄関から入って左手にトイレやお風呂、洗面所があり、右手はシステムキッチン。ちゃんと二口コンロだ。そこを抜けて入った部屋は長方形で、入口左にクローゼットがある。あとは食事用のテーブルと、その前にテレビ、パソコン机が奥に向かって並び、机の正面にはセミダブルのベッド。なかなか良い暮らしをしていると思う。
「係長、上着を」
「ああ。悪い」
 ハンガーを出して係長のスーツの上着をクローゼットにかけて、座布団の上に足を崩して座ってもらう。閉め切った部屋は少し蒸し暑かったけれど、窓を開けると涼しい風が吹き込んできた。少し居心地悪そうにしていた係長は、ベッドの奥のベランダを見て、少し目を細めた。
「……それが、前言っていた家庭菜園、か?」
「はい。覚えていてくれたんですね」
 プランターが三つ、並んでいる。今はもう収穫を終えて、何も植わっていない。係長がわたしの話を覚えてくれていたというのが嬉しくて、頬が自然と緩んだ。それに居心地悪そうに肩を竦める係長に笑ってしまった。冷蔵庫から水出し玄米茶を取り出して出すと、一気に飲み干した。余程喉が渇いていたんだろう。ついでにテレビのリモコンを差し出して、好きに見るように勧めた。
「わたしは、ご飯を作ってしまいますね」
「……何か、手伝うことは?」
「大丈夫ですよ。係長はお客様なので、ゆっくりくつろいでいてください」
 わたしの言葉に何か言いたそうな係長に微笑んで、キッチンへ向かう。炊飯器をチェックすると、もうご飯は炊けていた。すでにきのこが出回っていたので、本日はしめじとの炊きこみご飯。醤油の良い香りが、ぷーんと漂う。それに残っていた鶏そぼろを混ぜ込んだ。上に金糸卵を散らすとまた美味しいんだけど、今日は他に卵を使うのでなしで。
 まずはカレイのうろこを剥いで、わたを掻きだし、十字の切れ目を入れて、火を通しやすくする。それを二尾分やっている間に、つるむらさきを茹でてざるに上げた。冷水で冷やすといいらしいんだけど、水道代がもったいないので却下。料理中に冷ます。
 次に茄子を輪切り、玉ねぎは細切りにして水に浸し、火にかける。あとは湯気が立ってくるころにだしの素を入れて、沸騰直前に味噌を溶かせば味噌汁の出来あがり。手抜きというなかれ、確かにちゃんとだしを取ったら美味しいけれど、時間の省略と言うのも、料理には大事なのだ。
 その横のコンロで生姜・醤油・みりん・水・酒・砂糖を入れて煮立たせたら、カレイを入れて落とし蓋をして、中火で十分くらい。普段煮魚を作る時なんか、めんつゆを入れて、あとはたっぷりの水、酒少々で仕上げる。ちゃんとやった方がいいんだろうけれど、めんつゆでも十分美味しいし、味付けの手間があまり掛からないのだ。かぼちゃなど甘く煮付けたいときは砂糖を加えればいいし。だけど今日は新鮮で美味しいお魚なので、ちゃんと調味料を計って作る。ちなみにカレイは、普通の煮つけと違って長時間煮込むと身が硬くなってしまう。短時間でも味は十分染み込むし、煮魚は冷める時に味が染みるのだ。火を消し、あとは余熱に任せる。
 あとは彩りが足りないので、だし醤油の卵焼き。卵を三つ取り出したところで、後ろに人の気配を感じた。
「係長?」
「……何か、手伝うことはないか?」
 普段は広く感じるキッチンも、係長が立つとそうでもない。断ったはずなのに、律儀と言うか。でも、確かに完全にお客さんでいる、というのはちょっと気まずいかもしれない。
「えっと。それじゃあ、卵、割っていただけますか?」
 以前、料理の腕が、と言っていたけれど、どの程度なんだろう。卵の殻くらいは割れるはず。そう思ってボウルと卵を差し出すと、係長は一瞬固まった。でも無言で頷き、
しっかりボウルを受け取った。何だか不安だなぁ、と思いつつ、危うく沸騰しかけた味噌汁の火を止めて、味噌を溶かしいれようとした時。
 ―グジャッ
 ……何とも耳触りの悪い音がした。
 振り返れば、ボウルの縁とシンクで広がる、黄身と白身と殻と。ひびを入れる時に力を入れ過ぎたらしい。何とも初歩的なミスだ。諦めず、もう一度卵を割る係長。今度はひびが蜘蛛の巣状に入り、開けようとした時に殻まで一緒に入ってしまった。最後の一個は、なかなかひびが入らず、シンクに叩きつけている内に割れてしまった。
「……」
「……」
 ……これは。そっと係長を見ると、悲壮感の漂う目でボウルやらシンクを見つめていた。
「あー、でも。慣れないとこんなものですから」
「……昔からだ」
「え?」
「調理実習でも、一人暮らしを始めてからも、今でも。目玉焼きくらいは作れるようになろうと、試しているんだが……」
 曰く、卵も割れない、割れても殻が入ってバリボリ音を立てるとか。目玉焼き自体の裏面も真っ黒になり、終いには煙が立つらしい。
 まぁ、あれでなかなか目玉焼きも難しいものだ。わたしも小さい頃は必ず焦がしていたし、炒め物は慣れない内は水を入れてやるといい、とだけ言った。
「卵を割る時は、平らなところで、やるんですよ。それでひびが半分以上入ったら、割るんです。割る時も、ひびに力を加えると器に殻が入ってしまうので、軽ーく、左右に開く感じで」
 実演してみせると、係長はちょっと感動したらしい。尊敬のまなざしで見つめられた。……いや、この程度で尊敬されても。しかも係長は上司だし。だけど、悪い気はしない。そのきらきら輝く瞳に見つめられることも。
 苦笑で応え、もう一つ卵を割る。実はこれで卵は終わり。いつも卵焼きを作る時は三つ使っていたんだけど、仕方ないだろう。ボールに残った殻を取り除けば、二個半位の量にはなる。シンク下から卵焼き器を取りだすと、不思議そうに係長は首を傾げた。
「それは、何だ?」
「卵焼きを焼く用のフライパンです。丸いフライパンじゃちゃんと形にならないので、これが必要なんです」
 だしの素少々、醤油少々。卵焼きはしょっぱい方が好きだから。熱くなったフライパンに卵液を流し込めば、じゅううと香ばしい音。係長は未だに手元を眺めているので、ちょっと気まずいけれど、いつも通りくるくるひっくり返す。しまった、焦げ目がついてしまった。個人的な好みでちょっと焦げてる位が好きなのもあるけれど、なかなか真っ黄色の綺麗な卵焼きって作れない。
 ぽん、とお皿に乗せて、包丁で四つほどに切り分ける。昨日使って、冷蔵庫に残っていた大根おろしを上に乗せると出来あがり。
 食事用のテーブルに持って行こうとすると係長がわたしを止めて、わざわざ運んでくれた。
 もしもの時用に、食器を全て二セットずつ用意しておいて良かった。いそいそとキッチンとテーブルを往復する係長に頬を緩めながら、盛り付けた味噌汁やご飯を渡した。


  

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