「京くん」
 馬鹿馬鹿しい質問も終わり、椅子から立とうとした時。不意に、服の裾を掴まれた。振り返ると、猿より赤い顔をした先輩が、俺を見上げている。仕方なく、口を開いた。
「何ですか」
「あの……」
 自分から声をかけたくせに、口を閉じたり開いたり。埒のあかないその態度に、大きくため息を吐く。それに刺激されたのか、ぴくりと肩を跳ね上げ、俺の目を見た。そして。
「い、言ってくれるんだよね!?」
「何を」
 反射的に切り返してしまったが。まずい。答えない方が良かった気がする。慌てて口を押さえるが、時すでに遅し。彼女は非常に嬉しそうに、笑った。
「愛!!ささやいてくれるんだよね!!」
 ――とんでもなく、おぞましい台詞を携えて。
オモチャを受け取るのを待つ子供のように、目が異常にキラキラしている。この場を去りたい衝動に駆られるが、服の裾を掴む手は緩まない。仕方なく、彼女の目の前に膝をついた。こうすると、視線が同じくらいになる。至近距離でその瞳を覗き込めば、期待と喜びの2文字しか存在せず。俺の胃は、ますます痛くなるばかりだ。
「……本気、だったんですか」
「うん。だって京くん、1回も好きとか言ってくれたことないじゃない」
 そういうのを、簡単に言えるキャラじゃない。そう叫びたいのを、必死に押さえ込んだ。俺がそんなの軽々しく言ってみろ、気持ち悪くて仕方ないだろう。想像するのもイヤで、何も言わなかったけど。彼女は、俺の表情から何かを察したらしい。すぐに、悲しそうに笑った。
「……ごめんね、わがままだった、よね」
「……」
 分かればいい。そう、俺にとって嬉しい事態なんだが。誤魔化すようなその微笑みに、気分はあまり良くならなかった。跪いたままの俺の腕を引き、立ち上がらせ。部屋から出ようとするその背中は、1度として振り返らない。
 ――面倒くせぇ。
 言いたいことを素直に言えばいいのに、肝心なところで黙り込む癖は、意外に根が深いらしい。もう、俺達の関係は、部員とマネージャーじゃない。だから、もっと。ドアノブにかけられたその小さな手を、俺は後ろから握り締めた。
「……京、くん?」
「……あんたって」
「え?」
 振り返ろうとするその肩を、そっと押しとどめてドアの方を向かせたままにする。何がなんだか分かってないその様子からは、さっきまでの悲しそうな笑顔は見えなくて。でも、違う。見えないからと言って、見逃して良い訳じゃない。だって、俺達は、一応付き合ってるんだから。
「俺は、そういうの言えるタイプじゃないですよ」
「……、」
「だから、求められても困ります」
「……うん」
 分かってる、と泣きそうな声。ああもう、本当に面倒臭い。分かってないだろ、何にも。俺達の関係は何だよ。ただの先輩後輩じゃないんだよ。

 だからもっと、好きなだけ言えばいいんだ。

「でもあんたは、特別なんですよ」

 わがままでも、何でも。あんたがして欲しいこと全部。

「じゃなきゃ付き合うなんて面倒臭いこと、しませんし」

 他の奴になんて、叶えさせてやらない。これは、俺だけの特権。

「……わがまま言われても、嫌な気なんてしませんから」

 だから、あんたも叶えてくれよ。俺のわがまま。

「もっと、貪欲になってください。――俺に対して」

 それは、あんたの特権だから。

 言い終わって、頬が熱くなるのを感じた。情けなくなりながら、額を彼女の後頭部にぶつける。予想通り、こっちを振り向こうとしていたらしい。俺に押さえつけられ、額をドアにぶつけ、痛そうに声をあげた。その動きを封じ込めようと、華奢な身体を両腕にゆっくり閉じこめる。抱きしめてやれば、その腕に指が絡み付く。俺と同じ人間なのに、全然違う。ひどく、柔らかい。
「京くん」
「……何ですか」
「顔、見たいの」
「嫌です」
「わがまま言ってもいいんでしょ?」
「嫌な気はしないってだけで、聞くとは言ってません」
「京くん」
「……」
 仕方ない。幾分顔の赤みも引いてきたことだし。そう思って、腕を一旦解いてやる。ゆっくり振り返った先輩は、目を充血させて、嬉しそうに笑った。……つくづく泣きやすい人だ。そんなことを思っていると、不意に。彼女は俺の胸に飛び込み、強く、抱き付いた。離さない、とでも言うように。
「京くん、大好き」
「……知ってます」
「誰よりも、好きだよ。本当に、」
「だから知ってますってば」
「でも、」
 俺の胸に顔を押し付けたまま、くぐもった声で話す。その姿は馬鹿みたいなのに。何故だか、心臓が痛い。体温が2、3度上昇したようで、それを知られるのが恥ずかしいから、引き離そうとするのに、彼女は離れてはくれない。それどころか、また心臓に悪い言葉を口にする。
 もう、やめてくれ。あんたのその言葉を聞くのは嫌いじゃないけど、俺は、そんなに我慢強いタチじゃないんだ。
 まだ、続けようとする先輩の頬を両手で挟み、ぐいっと上に持ち上げる。背伸びをする彼女と俺の距離は、近付き。

「……俺もですよ」

 ――俺が背を屈めれば、0になった。

 


 背中を困ったように彷徨う指先が、苦しそうに顰められた眉が、真っ赤なその頬が。どうしようもなく愛しく思えて、熱にでもやられたのか、と自分に語りかける。俺の指先をくすぐる髪一本すら、そう感じるなんて。だけど多分、彼女に出会ったその日から、俺は世界1の馬鹿だから。
 ……今更そう、変わりはない。
 自分にそう言い聞かせて、力の抜けたその身体をドアに押し付けた。誰よりも心を揺さぶる言葉を吐き出す、何よりも甘ったるく柔らかい、癖になるその唇を味わうために。


  

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