外に出て、聡は大きく伸びをする。その様子に、私は思わず笑ってしまって。すると目敏い彼は、私を訝しげに見つめた。
「何?」
「ううん。背、伸びたなって」
「そう?」
「うん」
 絶対、そう。二年前、はにかんで笑った少年は、もうどこにもいない。ここにいるのは、柔らかく瞳を細める、男の人。私の大切な大切な、一人の男の人。くすぐったくなって、そっとその腕に指を絡める。普段、私から触れることは少ないせいか、彼は慌てたように「ひとみ?」声を上擦らせた。それにまた、笑ってしまうからどうしようもない。
「何。さっきまで、もっとすごいこと言ってたの、そっちじゃない?」
「……それは、そうかもしれないけど。自分からするのと、ひとみからされるのじゃ、全然違うんだよ」
 下から瞳を覗き込むと、気まずそうに視線を逸らされて。意地悪したくなり、両頬を包んで、私の方に顔を向けさせた。僅かに赤くなった目元、「暑いから」なんて言い訳、言わせない。
 もっと言って。私を溶かす言葉を。
 もっと、わがままになって。私の全てを、欲しいと強請るように。
「聡、好きだよ。あなたが、誰よりも」
「っ」
 真っ赤に染まったその顔が、狼狽えるその瞳が、全部、愛おしいのに。好きになれないのは、時々悲しそうに笑う聡。ねぇ、どうしてあなたはそんなに不安がるの?こんなにも、この心はあなたで一杯なのに。
「だから、悲しがるのはもうやめて」
「……え?」
「私があなたを好きなのを、疑わないで」
 私の言葉に怪訝そうな顔をした彼は、首を傾げる。だけど止めずに吐き出した言葉に、聡ははっとして、泣きそうに笑う。情けない位、曲げられた眉に私は悲しくなった。
「……疑ってないよ」
「嘘」
「嘘じゃない。……俺が、自分に自信がないだけ」
 ごめん、そう呟いて彼は私の手を外す。さっさと背中を向けるその姿が、無性に憎たらしい。自分に、自信がない?あなたは、いつまでそんなことを言い続けるの。
 ――時々聡は、私を見て、ホッとしたように笑う。
『今ある幸せが、目覚めたら終わってしまいそうで、怖い』
 ある日、不意に昼寝から覚めた彼はそう口にして、泣きそうに顔を歪めた。寝言のようなそれを言った後、あなたはまた眠ってしまって。その時私は、何て言えばいいか分からなかったんだけど。
 今なら、分かるよ。
 きっと今でも、あの嘘にあなたが縛られていること。その罪悪感を、その身に押し込めて、笑っていること。馬鹿じゃないの、って言いたかった。ううん、心の中でなら、何度だって言ってる。私だって嘘を吐いた。それを見過ごして、自分ばかり加害者ぶらないで。傷付くなら、一緒に傷付きたい。それが嫌なら、どうか笑って。もっともっと、私に触れて。そんな不安、感じなくなる位。

 足早なその背中を、追いかける。そして、後ろから強く、強く抱き締めた。びくり、と震える身体を、宥めるように優しく叩く。少しだけ、汗の滲んだポロシャツから香るのは、いつだって優しい、あなたの匂い。こんなものですら、私は一杯になるのに。目の前の固く熱い背中を逃さないよう、ぎゅうっと腕に力を込めた。
「もう、良いでしょう?いい加減」
「ひとみ、」
「自分を責める前に、私と幸せになることを、考えて」
 罪を贖おうとするならば、一緒に笑ってよ。過去の自分まで、どうか笑い飛ばして。じゃなきゃ、私はどうすればいいの?
「私、馬鹿みたいじゃない」
「……」
「聡がここにいて、こうやって触れられて、すごく嬉しいのに。そんな私まで、否定されてるみたいじゃない」
「っ違っ」
 慌てたように振り返ろうとするその身体を、ぎゅっと押し込む。するとしばらくして、彼はため息を吐いた。分からない?あなたが自分を否定すれば、そんなあなたを好きな私だって、否定されてしまうの。そんなの、嫌だ。
「ねぇ、知らない?私、男を見る目、あるんだよ?」
「……知ってる」
「だからね、聡は世界で一番の人。だって、私が選んだ人なんだから、当たり前じゃない」
 胸を張ってよ。私を一番好きなのは、私に一番好かれているのは、自分だって。自信とかプライドとか、そんな下らないもの、何処かに捨てて。等身大の私と、等身大のあなたで、恋をしようよ。

 しばらく黙り込んだ聡は、がっくりと肩を落として。お腹の前に回された私の手を、ぽんぽん、と叩いた。そして、呆れたような、苦笑混じりの優しい声。

「……負けた」

 その言葉を聞いて、私は手を離した。 街路樹は太陽で揺らめき、コンクリートの道は、どこまでも果てなく続く。それでも、私の前にあなたがいる。そこはきっと、最果ての地。

 くるりと振り返る彼の額には、汗が滲んでいた。笑いながらそれを拭った聡は、私の頬に大きな手を添える。
「……ひとみの言いたいことは、分かった。確かに俺、卑屈になり過ぎてたんだと思う」
「うん」
「だけどこの性格は、簡単には変わらない。これからもずっと、しつこく悩み続けるかもしれない。……それでも、いい?側に、いてくれる?」
 その手は、段々と震えて。最後の方には、顔も真っ白になっていた。それを何気ない顔で見上げながらも、私は内心苦笑する。
 やっぱり、どこまでも馬鹿な男(ひと)。
 ぐいっとその襟を、両手で掴んだ。そのまま、勢いよく引き寄せる。当然、バランスを失った彼は私の方へ倒れ込んで。
「、」
 ――唖然とする彼の頬に、口付けてやった。
 ぱっと手を離すと、よろりと後ろに仰け反る聡。その顔は、この暑さで焼けたの?なんて聞きたくなる位、真っ赤だった。今更じゃない、なんて苦笑しながら、腰に手を当て、びしりと指を彼に突きつけて。
「聡はもう、私がいなくちゃ駄目、でしょう?だったら、怖がりながら聞くなんて止めなさい。何て言われようと、離れてあげないから、覚悟してよ」
 半ば叫ぶように言うと、彼は「えーっと、……それって……」とパニックになっている。暑さと恥ずかしさで、見事に頭がやられたみたいだ。だけどそれが、小気味いい。私だけが、彼を振り回せるんだって、その事実が。そんなことを思いながら、ひらりと身を翻すと、後ろから慌てた声。だけど、止まってなんかあげないんだから。あなたが私を、捕まえてくれるまで、絶対に。

 卑屈に傷付いていく彼を見るのはひどく悲しいけど。 何処かで、それを喜ぶ私もいた。 彼は私から離れていかないんだろう、そう確信できたから。 彼ばかりじゃない。私だって、不安まみれだ。 でも、ね。
「男が弱いなら、女の子が肩押してあげるものなんだよねー」
 どこまでも弱気で、だけど虚勢ばかり張る彼。その原因が、私が好きだから、なんて。そんな可愛い人、どうして放っておけるんだろう?だけど彼は未だ、気付かない。それならば仕方ない。気付くまで、何回だって、何百回だって伝えてあげよう。
 「好きだ」って。
 「愛してる」って。
 あなたが私の側にいることを、当然と思うその日まで。
後ろから、私の名前を叫ぶ愛しい人が私を捕まえるまで、あともう少し――。


  

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