雪なんて、いらない。

ツリーも、飾りも、プレゼントもいらないから。だから。

――たった一つ、ください。


The Last Bet,For You.(1)


「こんにちは」
「あら、律ちゃん。今日も勉強?偉いね」
「受験生ですから」
 
受付のお姉さんに声をかける。毎日通っているから、今ではすっかり仲良しだ。感心したように言うお姉さんに微笑んで、茶化して返した。
 ……嘘、だけどね。本当はただ単に、あの人の側にいたいから。
 だけど自習室に向かう途中、お姉さんが思い出したみたいに声をかけて来た。
「ああ、律ちゃん。今日なんだけど、五時くらいにはもう閉めちゃう予定なの」
「、え?」
「一応クリスマスイブだしねぇ。誰か残る先生がいるなら勉強出来るんだけど」
「っ、き、北見先生はっ?」
「北見先生?どうかなぁ、格好いいし彼女と過ごすんじゃない?」
 
思いもかけなかった言葉に、慌てて彼の名前を出してしまう。だけどお姉さんは変に思うでも無く小さく苦笑して、「一応調べてみるね」と答えた。
 ……冗談じゃない。あの人に会うために、今日の友達とのクリスマスパーティーだって断ったのに。聖夜と言われる今夜、会いに来たのに。
 だけど意気込みに反して、パソコンから目を離したお姉さんは困ったように笑った。
「うん、残念だけど、授業は入ってないわね」
「……そうですか、」
「ごめんね。律ちゃん、北見先生と仲良いもんね」
「えと、英語、あの人の講座で」
「あ、なるほどねー。北見先生、気さくな人だしね」
「……とりあえず、勉強してます。五時まで大丈夫なんですよね?」
「うん。でも、たまには早めに帰ってあげたら?律ちゃん、よく籠ってるじゃない」
「はい」
 
生返事を返して、お姉さんに背中を向ける。
 ――ウソツキ。今日だけは、側にいてくれるって、そう約束、したのに。

 私は、塾に通っている。
 塾自体はCMでよく聞くような、大手の分校。だけど他の教室と違って、うちのは個別に近い。講座人数は通常二十人くらいはいるものらしいんだけど、ここでは一講座十人以下が基本になっている。稀に人気のある講座はそれ以上になったりするらしいけど、基本的にどの先生も教え方が上手いし面白いし、そこまで人気が偏ることは無い。
 そしてそんな中でも一番の若手が、北見先生こと北見冬斗(きたみとうと)。非常勤講師の彼は、未だ二十五だと言う。ついでに、先生はとても綺麗な顔立ちをしている。本人は染めてないと言う猫っ毛で、ふわふわの綺麗な茶髪。それが冷たくも見える彫刻のように美しい横顔を、予想以上に可愛く仕上げる。スッと通った鼻筋、切れ長で吊り上がり気味の眼、薄い唇。ひょろりと高い身長も、とても人目を引く。中身は面倒くさがりやで、無精で、親父臭くて、ただのニコチン中毒なのに。その美麗な横顔は、誰の眼も引きつけるから。――私の眼も。

 先生と出会ったのは、今年の四月。大学受験を目前にして、私は毎日をぼんやりと過ごしていた。その煮え切らない態度に困った母は、近所でも評判のいいこの塾に入ることを勧めた。私自身、そろそろ勉強もしなくちゃな、そう思っていた頃だから素直にそれを受け入れた。とりあえず連絡を取って説明を聞きに行き、塾長もいい人だったから、その場で話はまとまった。
 そして早速、次の日から始まった授業。どうすればいいのか、どこで授業をやるのか分からない私は、とりあえず職員室のようなところに行き、塾長を訪ねた。けれど。
『講座は適当に決めておいたから、変えたかったら言って欲しい』
 
それだけを告げられ、今日の担当だ、という北見先生と教室まで向かった。
 初対面の印象はとにかく、『綺麗な人』に尽きる。着崩したスーツの感じから言って、こんなところじゃなく、ホストでもやってる方が似合いそうだ。しかも初めての塾で戸惑っている私を置いて、長い足でスタスタと行ってしまう。少し苛立ちながら、広いその背中を追い掛けた。
 と、不意に先生は、私を振り返った。
『おっまえ小せぇなぁ。身長いくつ?』
 ……
いきなりの質問に、一瞬、意味が分からなかった。
 困りながらも、恐る恐る声を出す。予想以上に低い声に、驚きながら。
『154です』
『へぇ。俺188だから、35くらい差あんのか』
『、え』
 
告げられた身長に、ビックリする。高いだろうとは思っていたけど、まさかそんなに?とりあえず『そうなんですか、』そう返しておいた。そんな私の心境を知ってか知らずか、先生は話を止めなかった。
『高校までバスケやってたんだよ。結構上手かったんだぜ?』
『はぁ』
『お前、何か部活やってねぇの?』
『……今は特に。前は、バレーやってました』
『へぇ、意外』
 
即座に切り返される言葉に、返事に戸惑った。なんて答えたらいいものなのか、あまり人と仲良くなるのが得意じゃない私は、分からなくて。黙って俯いたら、数秒経って、困ったようなため息が聞こえた。理由が分からなくて、顔を上げて首を傾げる。
 先生は、静かに苦笑していた。柔らかに緩む目元のせいか、その顔は、ひどく優しく映り。
 心臓が、大きく音を立てた。
『や、悪ぃ。何言ったらいいか分かんねぇんだよ』
『……え?』
『俺も今年入った組でさ、お前で三人目なんだよ。受け持ちの生徒。ただ前二人結構なつっこい感じの男子だったから、女子ってどう話したらいいか全然分かんなくてな』
 
だから、つまんなかったら悪い。そう言われて、慌てて首を振った。
 決してつまらない訳じゃ無くて、ただ、反応に少し困ってしまっただけ。自分も塾は初めてで、年上の男性と関わるのも初めてだから、緊張したのだ。たどたどしくそう口にすると、先生は少し驚きながら、安心したように頬を緩めた。
 ……後々聞いたら、これらは全て見事な嘘で。完璧に騙された自分に、頭が痛くなった。
 だけど当時はその笑顔に胸がドキドキして、ツルリと口を滑らせて色々先生を褒めることすらしてしまった。今現在、それをネタにからかわれたりもされちゃっているし。
 でも先生は、とっても優秀な先生だった。今は大学院に通ってるって話で、将来は研究職に就くから教員は興味無いって言ってたけど、その教え方は合理的で、正確。分かりやすい解説には文句の付け所も無かった。
 だからその後、塾長に担当は北見先生で、とお願いして、それ以来、英語と物理はずっと彼にお世話になっている。

 ――だけど、北見先生に担当をお願いした理由は、それだけじゃ、無かった。
 初めて会った時に跳ねた心臓は、その後もずっと、北見先生が近付く度、私の心に負荷をかけて。
 夏の直前、私は気付いたのだ。この気持ちの正体に。

 
先生が近付くと、高鳴る心臓に。
 
先生が離れると、泣きたくなる衝動に。
 
先生が他の女子生徒や美人な先生と話していると、苛立つ気持ちに。
 
それらが指示した方向は、ただ一つだけで。

 
私はそれを自分だけで抱え込むには余りに幼く、そして、馬鹿だったんだって、今なら分かる。


  

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