The Last Bet,For You.(2)


 初めての告白は、夏期講習の最中。当時の私は、気付いたばかりの気持ちが嬉しくて恥ずかしくて、先生が近付く度に気持ち悪いくらいに笑っていた。
 多分、先生は、気付いてた。とっくに、私の気持ちになんて。だけど、知らない振りをしてたのに。なのに、私は先生の気持ちを見ないで、自分勝手になったんだ。

 北見先生は、自分の授業の最初に、先生お手製の十点満点の小テストをやらせる。合格点は毎回まちまちだったけど、少なくとも予習復習をしっかりしないと、解けない。
「今日のは簡単だからなー、合格点は七点。はい、スタート」
 
先生の合図と同時に、カリカリとシャーペンが紙の上を滑る音がする。
 私もテストを見て、問題を確認した。……うん、確かに簡単。頷きながら、私もシャーペンを手に取り。正解数を六問に押さえて、シャーペンを置いた。
 今日の問題は、割と簡単。そして先生は合格点が六点を越える時限定で、ランダムに居残りを決める。(それ以外の時は次回までにどっさりと宿題を出される)それが発表されるのは丸付けが終わった後だし、居残りじゃない時の罰が大変だから、先生狙いの女の子も勉強を頑張る。
 そう、勘が外れれば、大変だけど。私は、自分の勘にかけ、そして。
「……合格してないのは、三人か。河村、櫻井、横田。今日最終授業終わったら、この教室に集合な。で、再テストだ」
 ―
―あの瞬間、嬉しさが身体中に染み渡った。

 先生の授業は七時から八時で、最終授業の二つ前。私はその後一時間開けて、九時二十分から最終授業の数学が詰まっていた。終わった後、わざとゆっくり先生の教室に向かって。私が着いた時、横田さんはもう帰っていて、河村くんが必死にプリントを解いていた。
 ドアが開いた音に反応して、教壇の椅子に座っていた先生は少しだけ視線を上げて。私だと気付くと、手を軽く振ってから持っていた書類に何か書き込んでいた。私も小さく頭を下げて、教室を見渡す。
 河村くんは窓際、後ろの方に座っている。あんまり仲が良い人でも無いし、騒がしいタイプの彼は、少し苦手だったから。プリントを北見先生から受け取った後は、廊下際の一番前の席に着いた。
 
五分か、それ位経って。教室の中がどこまでもシンとした空気に包まれたころ。
 後ろの方から「終わったー!!」という叫び声が聞こえた。ビックリして、思わずシャーペンを握り締めた瞬間。
「うるせぇよ馬鹿が」
 
重なるように返される先生の声は、ひどく自然に、私の耳に馴染んで。
 ……トクリ、また心臓が鳴る。きちんと浮かんでいたはずの、問題の答えは、不意に消えてしまった。
 大きく響く、椅子を片付ける音に、「だってー」という、拗ねた河村くんの声が響く。
「やぁーっと終わったんだもん」
「ちゃんと解けたのか?」
「もっち!!早く採点してよ、トートちゃん♪」
「……お前、死にてぇのか?」
「!!うっそごめん冗談だって!!」
「ったく餓鬼が……」
 
私は、顔が上げられなかった。先生の気怠げな声の調子はいつもと変わらないけど、少しだけ、いつもより楽しそうな響きだったから。
 仕方ないのかもしれない。河村くんは、先生が始めて受け持った生徒らしいから。
 でも、それでも。先生の名前を、『冬斗』って名前を、軽く呼べる彼が羨ましくて、悔しくて。今二人を見たら、確実に恨めしげな顔になってしまうって、思ったから。だから私は、最後まで顔を上げず。
「ほい、合格。ギリギリだけどな」
「やった!!きたみんお疲れっ」
「だから大人をナメんな、このクソ餓鬼が」
 
――二人の親しげな会話を聞いて、唇を噛み締めるだけだった。
 
そこで二人の会話はいったん終わって、足音が響く。視線をあげると、先生はまた顔を伏せて書類を眺め。河村くんは、荷物を片付けて帰る支度をしていた。一通り荷物を纏め終えたのか、顔を上げた瞬間、「、」目が、合う。思わず、私は目を逸らしてしまって。
 だけど、河村くんはニカッという効果音がぴったり来そうな微笑みを、見せてくれた。
「きたみん、じゃ、俺帰るねっ」
「おー、ちゃんと勉強しろよ」
「そっちもちゃんと仕事しろよー煙草ふかしてばっかないでさ。櫻井さんも、バイバイ!!」
「え、」
 
リュックを背負い、後ろのドアを開ける。
 立見先生は軽く手を振って、その直後、一緒に呼ばれた自分の名前に反応できなかった。慌てて振り返ると、ニコニコしたまま、私を見つめている河村くん。
 戸惑ったけどとりあえず、手を振って。
「……うん、またね」
「じゃあねっ!!」
 
それ以上に大きく彼は手を振って、暗い廊下を走り抜けていった。そんなに防音設備の出来ていない塾中に響くんじゃないかってくらい、大きな足音で、駆けていく。ぼんやり、見えないはずの彼の後ろ姿を追っていたら、不意に隣の席の、椅子を引く音。
 ハッとして振り返れば、……北見先生が、椅子に座り込んでいた。
 今日塾に来た時に着ていたスーツの上着は着ていない、長袖の青いシャツを腕まくりして、紺のネクタイを緩めていた。まじまじとその姿を見ていると、目があったとき、眉間に皺を寄せられた。
「なんだ?」
「え、いや、別に。ここの塾ってスーツじゃなきゃ駄目なのかな、って思って」
「別に決まってはいないけどな。私服着て、いちいち生徒につっこまれんのがめんどくせぇだけだ」
「……そうなんですか」
 
意外とあっさり返された答えに驚きながら、胸がズクリと痛くなった。
 生徒、か。やっぱり先生は、大人なんだ。
 生徒と、先生。そこに、しっかりとした線を引いている。決して近くなりすぎないよう、近付きすぎないように。それを改めて思い知らされて、知っていたはずなのに、急に胸が苦しくなった。
 眉間に皺を寄せ、俯いてプリントをじっと見つめる私を見て、先生は急に近付いて。
「――ごめんな、」
 
耳元で、不意に囁かれる言葉。それは意外に至近距離で、「!?」私は思わず、仰け反るように顔を上げた。そこには、思った以上に近く、先生の綺麗な顔があって。
 困る。何て言うか、困る。先生は何の意識もなくやってたとしても、私の心臓は、大きく跳ねるから。
「河村。うるさかっただろ?」
「へ、」
「いやだから、集中できなかったのかな、と思ったんだよ。全然解けてねぇだろ?」
「あ、そ、そうですね。でも、平気でしたよ?そんなじゃなかったですし、別に」
 
言われた内容は予想外で、少し反応に遅れてしまったけど。たどたどしくとも、頑張って言葉を返した。途中、指先でプリントを指さされたけど、決して河村くんが悪かったわけではないし。
 首を振って否定すると、先生は「ふーん」冷たく言葉を返して、目を細めた。
 ……何か、まずいこと言ったかな?急な不安に襲われて先生を見上げても、視線を合わせてくれない。それどころか、皮肉った微笑みを口元に浮かべて。
「お前、あいつ気に入ったの?河村のこと」
 ――私にとって、何より残酷な言葉を口にした。

 
一瞬、何を言われたのかわからなくて、「え?」間抜けな反応を返すけど、先生は黙ったまま。ズボンのポケットから煙草の箱を取り出すと、おもむろにそこから一本出して、口に銜える。一緒に出したライターで火を点けると、静かに息を吐き出した。その一連の仕草はあまりに自然で、洗練されていて。思わず、目を奪われる。
 だけど頭の中にはさっきの先生の台詞がずっと回っていて。先生が煙草を吸っているのを見たのはこれで初めてだと、しばらくしてからようやく気付いた。瞳の表面が徐々に潤ってくるのは、煙草の煙が目に染みるせいだ、って言いたい。でも、私にそんな言葉を言う程余裕はなくて。ただ、震える唇で、震えた言葉を吐き出しただけだった。
「……先生?どういう、意味ですか?」
「どういうもこういうも、ねぇだろ?あいつがおまえのタイプなんじゃねぇのって、言っただけだろ」
「っ、な、んでそんな……」
「少なくとも、河村はお前、気に入ってるみたいだぜ?」
「は、」
「あいつ、前からそうなんだよ。惚れっぽくて、気になる女の前では騒いで、滅茶苦茶人懐こいの」
 ……
誰にでもそうなんだと、思ってた。その言葉は、飲み込んだ。
 でも別に、今日初めて話しただけだし、私は彼の普段から付き合ってるタイプとは、違う。河村くんは他校の男の子で同学年だけど、笑顔が可愛いって、先生ほどじゃないけどみんなに騒がれてて。彼が仲いい女の子は、どっちかっていうと、明るくて元気な、茶髪に染めてるような子達で。
 私は、そういう子達とは、正反対。
 髪は真っ黒で、背中の半ばまである、長い髪。あんまり塾で仲良い友達はいないし、本当に勉強してるだけって感じ。だから、河村くんが私を気に入るなんて、あり得ないのに。先生は、それをまるで確信してるみたいだった。
 ……そして、それを何とも思ってない、みたい。それが一番、堪えるのに。
 
真っ暗な廊下は、二十分前から誰も通らない。静かな室内には、カチコチという時計の音だけ、響いた。「クーラーは十一時二十分を過ぎると自動で切れるから」、時計を横目で見てから先生は冷たく言った。
 うちの塾の最終授業終了は十時二十分。今の時刻は十一時。私と先生の時間も、あと、二十分で終わり。
 こんな馬鹿なこと、しなきゃ良かった。
 辛くなるだけ、苦しくなるだけだ。私と先生の距離を、思い知らされただけじゃない。自分の馬鹿さ加減に私はその時、ようやく気付いて。そして、そこで止めておけばよかったのに。
「先生、は?」
「あ?」
「私が、河村くんを気に入ったとして、それに何とも、思わないんですか……っ!?」
 
悲鳴のような質問を、した。
 先生の顔を見据えると、何の感情も映さないような、冷たい瞳。思わずぞくりと背筋を震わせて後退ると、先生は片眉だけを器用に上げて、冷笑した。そのまま、私の手首をぎゅっと掴む。冷えた身体は、そこだけ集中して熱が集まった。
「何で?」
「ぇ、」
「俺が、何か思わなきゃいけない義務でもある訳?別にいいんじゃねぇの、お似合いだよ。生憎、餓鬼同士の恋愛に、面白おかしく首突っ込むほど俺は暇じゃねぇから。
 ほら、下らないことしゃべってる暇あんだったらさっさと問題解けよ、櫻井?」
 
――足下から、崩れ落ちていく気が、した。
 
私は、先生に何を求めたの?何を、期待した?
 
馬鹿じゃないの。完全に、ただの馬鹿じゃないの。
 
勝手に、私は自分の理想を振りかざして、先生に押しつけて、そして勝手に、ショックを受けてる。私は先生に、どんな反応を期待してたって言うんだろう。引き留めてほしかった?俺にしとけよ、って?そんな、あり得ないこと、信じるほどお子様じゃないつもりだったのに。
 ぽたりと、一滴。プリントに、涙が染み込む。藁半紙の紙には、簡単に広がった。反射的にその部分をギュッと握りしめて、残りの問題を、解く。いつの間にか解かれていた手首は、何の熱も無かったかのように、冷えきっていて。目の前をたゆっている先生の煙草の煙だけ、私の瞳に映る。
 最後の問題を解いて、無言で、先生の目の前にプリントを差し出した。黙ったまま、先生は赤ペンを出して、それに丸付けを始める。その瞬間、私は口を開いた。
「……北見先生がどうであれ、私、は。先生が、好きです」
 
ぴたり、とペンが紙の上を滑る音は、消えた。
 俯いたままだから、何も、見えないし。見たく、ない。
 私はその時、自分の拙い気持ちを、格好悪いくらい、吐き出すので一杯で。
「……好き。好き、なんです。河村くんじゃなくて、他の誰でもなくて、北見先生、が……、」
「もう、いい」
 
――だけど、先生はそんな私の言葉を、冷たく遮って。
 のろのろと顔を上げる私に視線を合わせると、全てを拒絶するような瞳で、

「それ以上、何を言っても。俺は、お前に何も出来ねぇよ」

 全てを断ち切る言葉を、言った。

 あの夜のことは、それ以上は覚えていない。次の日、目を覚ましたら妙に頭が痛くて、鏡を見たとき、妙に腫れぼったい自分の瞳に、「ああ、昨日の出来事は、本当だったんだ」と思うだけで。その日から妙に話しかけてくる河村くんに何も思わなかったし。同様に、いつも通り、私をからかい、意地の悪い笑みを見せる先生を見ても、何も思わなかった。
 ……いや、先生には、一つだけ、思ったことがある。
 ああ、大人って、上手いんだな。そんな下らないことを、ぼんやりと考えていた。


  

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