11. 〜jealousy〜


「もちろん、職員の交友関係にまで口を出すつもりはありません。けれど、職務中に恋人を連れ込むのは社会人としてどうなんでしょうか」
「……はい、申し訳ありません」
「私達は子供を保護者の方から預かると言う大事な仕事を請け負っています。これには、信頼関係が第一です。職務放棄をするような職員がいる保育園は、信頼に足ると言えるでしょうか」
 職員室の会議用テーブル、園長先生の目の前に、私と寛人は並んで座っていた。
 寛人が勝手に来たとはいえ、私も最初からちゃんと突っぱねるべきだった。それに私だって、職員があんなことしてたら、この保育園には預けられない!って絶対思うはずだもの……。
「――申し訳ありませんでした。俺が彼女に、仕事中だと分かっていながら迷惑を掛けたんです。俺のせいで、本当に、申し訳ありません」
 反省して俯く私の横で、寛人は口を挟み、静かに頭を下げる。その謝罪は当然だ!と思いつつ、寛人が謝るという珍しい図に、ちょっとびっくり。目を丸くしてしまう。
 だけど園長先生は寛人の謝罪に頷きながら、私を見つめた。
「そうですね。あなた自身にも問題はあると思います。けれど美哉先生も、もっと上手い対処の方法があったはずです。また、本来朝とお迎え時以外はあの門は開けないよう伝えているはずです。たくまくんに怪我が無かったから良いものの、もし彼が車道に飛び出していたらどうするんですか?」
「……はい」
 もう、何も言えない。寛人に怒りもあるけれど、まずたくまくんを門の外に出した時点で、私は保育士として失格だ。子供を不注意で危ない状況に置くなんて、最低だ。特に寛人に抱きあげられた時だったら、追いかけることも出来なかった。そう思うと、今更ぞっとする。と同時に自分に失望した。
 俯く私に、園長先生は大きくため息を吐き、「以後は気を付けてください」と言った。大きく頷き、立ちあがってもう一度頭を下げる。今月は減俸になったけれど、そんなの構わない。私の職務怠慢の結果だ。
 私の真剣な表情を見たからか、やっと園長先生は微笑み、寛人に視線を移した。
「それで?この方は、美哉先生の恋人かしら」
「は「違います」……」
 寛人の言葉をさえぎって、きっぱり否定する。あら、と目を見開いた園長先生は、ふふっと笑い声を上げた。横から鋭い視線を感じるけれど、無視だ。ていうか昨日から、何で寛人は私を恋人扱いするのか、全く以って謎。
「それにしては、親しそうだけどね」
「高校時代の同級生なんです」
 それは間違っていないはず。……というか、園長先生は気付いてないから良いものの、考えてみれば寛人って有名人だよね。ワールドカップ見てた人や、そうじゃなくても大抵の人は寛人の顔知ってるはず。見られる前に、帰ってもらわなくちゃ。特に、玲子先生に見つかる前に……。
「あー!?何で、洒井選手がいるんですかっ!?」
 ――遅かった。
「あら、玲子先生、お疲れ様。この方知ってらっしゃるの?」
「あ、お疲れ様ですっ。ええ、有名ですよ!園長先生、見たことありません!?ワールドカップ元日本代表、現在ドイツの強豪チームに移籍したサッカー選手の洒井寛人さんですよっ」
「……ああ。そう言えば、何処かで見たことあると思ったわ。よくニュースでも取り上げられてるわよね」
 同じく中番の玲子先生が、定時になったのか職員室に飛び込んでくると同時に寛人を見て悲鳴を上げた。玲子先生の言葉を聞いて、園長先生も大きく頷いている。玲子先生は興奮しているのか、頬を赤く染めて目を輝かせていた。同性から見ても、ものすごい可愛い。
 わあわあ歓声をあげながら、こちらに歩いて来る玲子先生。その様子にちょっと呆気に取られながらも、寛人はふ、と口角をあげて優しげな笑顔になった。
 ――何、その顔。
「はじめまして、洒井選手のご活躍、いつもテレビなどで拝見しています。大変なことも多いと思いますが、これからも頑張ってくださいっ」
「ありがとうございます。そう言ってもらえるのが何よりの励みです」
 隣に座る私なんて目もくれず、寛人は玲子先生に笑顔を振りまく。昔はどんなに女の子に騒がれても振り向かなかったくせに、何、その満面の笑み。そりゃファンサービスも大事だろうけど、私にだって、そんなぺらぺら口回らなかったでしょ。笑顔、向けなかったでしょ。
「あ、あの、よろしければ握手、してもらえないでしょうか……?」
 座る寛人に目を潤ませ、頬を染めて、弱々しい声で囁く玲子先生。男なら誰でも庇護欲をそそられるはず。女の私だって、ちょっとキュンと来ちゃったし。
 寛人は「もちろん」と笑顔で頷いて手を差し出し、寛人の焼けた大きな手と、玲子先生の白く細い手が、重なる。その瞬間、黒くて重いものが、胸にずっしり圧し掛かった気がした。そして胸に浮かぶ、言葉。
 ――触らないで
(……え)
 喉まで出かかっていたから、慌てて唾と一緒に、それを呑みこむ。何、今の。私、何を言おうとしていたの。
「……っ」
 顔が熱くなる。恥ずかしさで、涙がじんわりと込み上げてきた。慌てて俯くけれど、熱は私の耳までも覆っている。
 恥ずかしい。
 寛人の恋人扱いが意味が分からないと言いながら、私こそ勝手に、寛人を恋人扱いしていた。彼の態度に流されていたのかもしれない。でもそんなの、言い訳だ。どちらにせよ、こんな独占欲、自分では持ってないと思っていたのに。寛人が他の女の人に笑顔を向けるのも、話すのも、ただの握手ですら嫌、なんて。恋人でもないのに、こんな考え、気持ち悪い。恋人時代だって、こんな我儘、言わなかった。思いもしなかった。私は彼にいつか捨てられるだろうと、それだけを思っていたから。少しでも長く側にいたくて、独占欲や我儘なんて、端から切り捨てていた。……切り捨てていたつもり、だったけれど。
 何が重い女になりたくない、だ。私、最初っから重い女だ。当時は気付かなかったけれど、多分、最初から私はこんな感情を持っていたに違いない。じゃなきゃ今更、こんなにドロドロした思いが生まれてくる訳ないもの。最初から持っているとしなきゃ、説明がつかない。
 パニックと、悲しさと、独占欲と。色んなもので頭が一杯になる私の目の前で、やっぱり寛人と玲子先生は、仲良さそうに話しあっている。ワールドカップの寛人のプレイとか、今の活躍とか。私が知らないことだらけ。寛人を見るのが辛くて、ワールドカップもニュースもチェックしていないから。
 二人の話を聞けば聞く程、私の知っている寛人が、遠退いていくような気がした。隣に座っているのに、それは昔と変わらない距離なのに、会わないでいた六年は、当然、私も彼も変えていく。心から、実感した。
 だけど同時に、ちょっと苛立ちも芽生える。そもそも、今回怒られたのは私のせいも半分以上を占めているんだけど、それにしたって無責任じゃないか。寛人は、私の職場に勝手に来て、べたべた触って、たくまくんを虐めて、今は美人さんと仲良く話していて。そりゃ、寛人が全て狙っていた訳じゃないだろうけれど、私は減俸だって言うのに寛人はノーダメージで、逆に玲子先生みたいな美人さんに話しかけられて。

 ずるい、って思った。
 同時に、そんなに玲子先生と話してるのが楽しいなら、ずっと一緒にいればいいじゃない、って。

 そう思ったら、早かった。椅子から立ち上がり、園長先生に頭を下げる。
「本当に、すみませんでした。今後決して同じようなことが起きないように、全力を尽くします」
「ええ。美哉先生が反省してくれたのなら、それでいいの」
「はい、申し訳ありません。……それじゃ、今日はこれで失礼します」
 微笑むその目にもう怒りの色が乗っていないことにちょっとほっとしつつ、私はエプロンを脱いで、さっさと席を立った。隣の寛人も立ち上がろうとするのを、笑顔で押しとどめる。
「じゃあ私、帰るから。ひ――洒井くんは、折角だし、玲子先生とゆっくり話していきなよ」
「……は?なに言って、」
「じゃあ、お疲れ様です」
 訝しげな様子を無視して、私はさっさと出入り口に歩き出す。呆気に取られたような気配を背後で感じるけれど、無視してしまおう。心のざわめきが、どうしようもないから。
「……っはあ」
 職員室を出て、更衣室に向かう。早足で歩きながら、頭の中を巡るのは、さっきのツーショット。素直にお似合いだと思って、またそれに、苛立ちと悲しみと。自分でもどうしようもないけれど、止められない。
 これで昔の恋人にちょっかい出そう、なんて下らないこと止めるかもしれない。あんな極上癒し系美人、しかも自分のファンに声をかけられて、その上で私に執着する理由なんて、もう、見当たらない。これからは、再び心掻き回されることはなくなる。そう思うと、ほっとするのに。
 私の中のどこか片隅、泣き声をあげているモノを、私は気付かないふりをした。


 

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