12. 〜condition〜


 更衣室で着替えて、早足で園を出た。手を振る子供達に、ちゃんと笑顔を返せたか分からない。最初は普通に歩いていたけれど、気付けばふくらはぎが痛くなるくらい早足になっていった。一刻も早く、園から離れたいって思った。初めてかもしれない、こんなに職場が嫌になったの。でも、職場が嫌なんじゃない。寛人から離れたかっただけだ。
 息を切らして歩き続ければ、駅にたどり着いた。やっと立ち止まり、大きく息を吸える。いきなり深呼吸したから、咳き込んでしまった。
「っ、ほ、ごほ、……っ」
 荒い息も、背中に滲んだ汗も、気持ち悪い。苦しくて、目尻に涙が滲んだ。
 ……今頃、寛人、どうしているんだろう。玲子先生とまだ話してるのかな。もしかしたら、玲子先生もう上がりだし、どこか行ってたりするのかもしれない。別の先生と話してる可能性もある。どれにしても、今、彼の側には女の人がいる。私じゃ、ない人。
「……」
 苦しさと違う、別の涙。じわりと瞼が熱くなる。擦っても擦っても、零れそうになる涙に替わりはない。
 やっぱり私、馬鹿だ。自分で突き離した癖に、どうして泣いてるの。この感情は、なんだろう。嫉妬、寂しさ、それから、後悔?分からない。でも泣くくらいなら、ちゃんと考えてから行動すれば良かったのに。感情のまま動くから、いつだって後に辛くなるんだ。
 剥き出しのうなじが、太陽で焼けるように熱くなって、手で押さえた。その内腕も熱くなってきたので、一旦落ち着こう、と近くの木陰のベンチに腰を下ろす。座って大きく息を吐き、バッグからタオルを取り出して、顔を拭いた。こういう時、化粧をしていなくて良かった、って本当に思う。ずび、と鼻水を啜り、ぼんやりと太陽を見る。
 もうすぐ夏だから、まだ夕陽にすらなっていない。あと二週間もすれば、遅番の日でも日が残っているかもしれない。梅雨ならではの少し湿った風が吹いて、熱を持った頬やうなじを、少しだけ冷やした。
 ――明日、仕事行きたくないな
 浮かぶのは、社会人としてありえない思考。でも、本気でそう思った。もし行って、玲子先生から寛人との話を聞かされたらどうしよう。平静な顔でいられない自信がある。そんな未練がましい自分が、ますます嫌で。
「……もうやだぁー……」
 タオルに顔を埋めて、上体を折り曲げた。太股に顔を押し付けて、また溢れて来た涙を抑える。子供みたい。
 ―グイッ
「美哉」
 だけどいきなり、名前を呼ばれる。同時に、肩を後ろに引かれた。その声に目を丸くしながら、私は後ろへ倒れ込む。ぽす、と堅い身体に背中を受けとめられて、私は首を仰け反らせて上を見つめた。
 顔に掛かる黒い影、大きな人。肩を掴むのとは逆の手で、私の涙は掬われる。はぁ、と大きくため息を吐いた彼は、私の頬を軽く摘んだ。その手つきは、卒業式の時を思い出させる。
「……ひろ、ひと?」
「……お前、俺を置いて行くなよ」
 呆然と名前を呼ぶ私に、ちょっと顔を顰める寛人。ぐいっとシャツの裾で乱暴に汗を拭うと、私の腕を掴んで、乱暴に立たせた。
「、何」
「帰るんだろ?」
 手首を掴まれ、改札に向かう。そんな私達を、周りの人々は遠巻きに見ている。
 今の寛人はまたサングラスを掛けているけれど、それでもオーラは隠せない。何と言うか、一般人じゃない。黒ずくめのせいで堅気な人には見えないというのもあると思う。それに目が見えなくたって、それ以外の顔のパーツや体つきで、イイ男っていうのは分かる。女性の熱視線に気づいているのかいないのか、寛人は前を見て歩く。
 でもいきなり振り返って、私のバッグ、それについている定期を見た。
「小倉塚、か」
「え」
 私の家の最寄り駅の名前を小さく呟くと、寛人は私の手首は掴んだまま、おもむろにポケットから小銭を取り出して、切符を買った。そして改札を抜ける。私も慌てて定期を取り出し、改札にタッチした。
 この駅は、あまり大きくない。一つしか路線が走っていないから、ホームも一つだけ。階段を昇ると、寛人は私に振り返り、ホームを示した。
「どっち?」
「え、あ、……一番線」
 丁度電車が来るらしく、アナウンスが頭上を通り抜けた。中番の時間は帰宅ラッシュから微妙に外れるので、ホームにもそんなに人はいない。だけどその人々の視線を集めているのは、分かる。
 ちらり、横目で寛人を見た。光を浴びて、空いた手をポケットに突っこんでいる。仕草だけを見たらどこにでもいる人なのに、寛人がやっていると、まるでモデルみたいに思える。そんな彼の横にいる私と言えば、GパンTシャツにノーメイク。スタイルだって良くないし、顔だって、……あんまりだし。
 付き合っていた当時は、せめて釣り合うように、と頑張っておしゃれしていた。でも今は、何も手を加えていない。何より、六年前に比べて生活も不規則になったから、肌の調子も悪くなった。十代とは違う。
 考え始めると、ずどんとお腹に重たい鉛が落とされたみたい。今まで呆然として寛人の存在を受け入れていたけれど、口を開いた。
「は、離して、よ」
「……」
「痛いし、っ、何で、追いかけて来るの」
 電車がホームに滑り込んで、風が私の髪を揺らす。視界の端にちらちら映る自分の黒髪を見ながら、唇を噛み締めた。
 握られたままの手首が、痛くて熱い。どうして、ここに来たの。私を追いかけて来たの。さっき寛人がいなくて泣いた癖に、今は側にいるから怒っている。自分でも、訳が分からない。だから嫌なんだ。こんな矛盾した感情、私、いらない。ただ穏やかに日々を過ごしたいのに。
 また瞼が熱くなって、涙が零れそうになる。泣き腫らして、目の下が痛い。それもこれも、寛人のせいだ。全部全部、寛人の、せい――。
 電車が到着して、ドアが開く。乗り込もうとする寛人が私の手首を引くけれど、頑として動かなかった。
「……美哉」
「……」
 呆れたように私を呼ぶ声に、腹が立つ。どうして、一緒にいなくちゃいけないの。どうして、解放してくれないの。もう嫌。
「寛人と一緒にいると、疲れるのっ」
「……」
「離してったら!」
 半ば叫ぶように言うと、寛人は少しだけ、その手を揺らした。だけどそれは一瞬のこと。ぐ、と強く握り直すと、寛人は急に屈んだ。
 そして。
「、っひゃあ」
「暴れるな」
 さっきと同じく、子供抱っこされる。突然のことで悲鳴をあげ、足をばたつかせる私に寛人は一言言い放つと、電車に乗り込んだ。少ないながら、車内にいた人達に、じろじろ見られる。一気に顔が熱くなり、小声で寛人を呼ぶ。
「お、下ろしてよっ」
「……」
「寛人!」
 私の声に、彼は少しだけ目を細める。そして腕に力を込めた。
「……今日」
「え?」
「今日、これから。話をしてくれるなら」
 ……何、その交換条件。どうして私が寛人の言うことを聞かなくちゃいけないのか。でも、さすがにそれは言えなかった。そしたらもっと話は長引くと思ったし、その間ずっと抱っこされたままなのは、恥ずかしすぎる。
「……分かったから」
 渋々頷くと、寛人は「約束だからな」と小声で呟いて、私を床に下ろす。その間も、手首は掴んだまま。どれだけ私が逃げると思っているんだろう。そりゃまぁ確かに、隙があれば逃げてしまおうと思ってるけど。
 寛人はドアに寄りかかり、腕を組む。そして首を傾げ、私の瞳を覗き見た。
「……美哉は少しでも目を離すと、消えるから」
 ――真っ直ぐな、その瞳。だけどその奥で蠢いているのは、何だろう。まるで傷付いた色合いにも思えるそれに、私は唇を噛んだ。
 そんなの、寛人の方じゃない。少しでも目を離したら、どんどん遠くへ行って、私なんかじゃ手の届かない場所に、辿りついてしまう。
 そんな人がどうして、私に置いて行かれたような顔、するの。
 最初に手を離したのは、消えて行こうとしたのは、寛人だったのに。


 

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