5. 〜declaration〜


 一目惚れに近い状態で洒井くんを意識して、それからずっと彼を追いかけた。見れば見るほど、知れば知るほど、好きになる。会話を交わしたことはほとんどないのに、それでも好きになってしまった。
 二年生からはクラスは変わってしまい、ますます接点はなくなる。それでもすれ違う時には彼を見つめて、その背中を追いかけた。
 唯一、一年から同じクラスだったゆきには私の気持ちは気付かれてしまった。うじうじと見つめるだけの私に告白すれば、と何度も言ってくれたけどそんなことは出来ず。あっという間にお別れの季節が来てしまった。

* * *

「美哉、どこ行くのー?」
「ん、ちょっと挨拶に……」
 三月上旬。私達三年生の卒業式が行われた。お昼少し前に式自体は終わり、その後担任の先生の挨拶があって、今は自由時間。各自写真を撮ったり、お世話になった先生に挨拶をしたりしている。そんな中、ゆきに声をかけられながら私は、走った。
 私にとっての、始まりの場所。あの空き教室へ。

 お世話になった音楽の先生に頭を下げて、空き教室の鍵を借りる。ピアノに挨拶したくて、と笑うと先生はやっぱり変な子ね、と笑いながら鍵を貸してくれた。
 三年間、何度も通った場所。部活にも入っていない私からすると、ここは一番の思い出の場所だった。
 教室に入ると相変わらず、少し埃臭い空気。家庭研修期間に入ってしまった二月はあまり来れなかったから、尚更だろう。
「……今まで、ありがとうね」
 そ、とピアノを撫でる。つるつるした触り心地、まるで慣れ親しんだ友達のようで。ありったけの感謝を込めて、お礼を告げる。蓋を開けて鍵盤に触れると、相変わらずの柔らかい音。もっと綺麗な音を奏でるピアノは、たくさんあるだろう。それでも私にとっては、この音が最高だった。
 だって、この子がいなければ私はきっと、洒井くんを好きになれなかったから。
 ぽろん、ぽろんとつたない手つきで卒業式の歌を弾いていく。ついさっき、精一杯歌ったのを思い出しながら、一生懸命。この子で弾くのは、きっとこれが最後だから。
 最後の一音まで何とか弾き終わり、大きくため息を吐く。そして、閉められたままの真っ白なカーテンを見た。
 いつも、練習の後、時間を決めて開いていた、このカーテン。そこから覗くのは、彼の真剣な横顔。それを見ていたら、私も頑張らなくちゃ、って思えて練習に熱が入った。
 ――今日開いても、ここには誰もいない。それでも、私は手を伸ばさずには、いられなくて。
 勢い良く、カーテンを引く。眩しい陽の光が目に飛び込んで、痛いくらい。少しだけ目を瞑り、ゆっくりと開いていく。そこには、誰もいない。
「、」
 はず、だったのに。
 私の顔を無表情に見下ろして、ガラス越しに立つのは、制服姿の――洒井くんだった。
 呆然とする私を見ながら、コツコツ、と窓を叩く。慌てて窓の鍵を解錠すると、彼は窓を大きく開いた。途端部屋に吹き込む、少し冷たい春の風。ふわりと近くの桜の木の花びらが教室に舞い込むのを、視界の端に捉えた。
 どうして。
 彼がいるのは、いつも、数メートル先のフェンスの向こう側だった。幻想にしたって、近すぎる。だって、今、彼は目の前にいる――。
「吉倉」
「っ……」
 低い声で呼ばれる、自分の名前。少し掠れているのは、練習で叫び続けているからなんだろうか。だけどどうしてか、とても優しく聞こえる。
 一年の時、同じクラスだっただけなのに。まだ私のことを覚えててくれたんだ、という喜びと、どうしようもない気恥ずかしさと。どちらもが胸を占めて、一瞬、息が出来なくなった。
 固まる私に洒井くんはふう、と息を吐いて、手を、伸ばす。
「、ふぇっ」
「……起きてるか?」
 むに、と引っ張られる自分の頬に意識が戻って来る。馬鹿にした言葉に反論しようと口を開くけれど、頬に触れたままの指先に、熱が集中した。痛いんじゃなくて、……好きな人に初めて触れてもらえた、っていう嬉しさで。顔を真っ赤にする私を、洒井くんはじーっと眺めた後指を離して、私の奥を指差した。
「ピアノ。弾いてたの、吉倉だよな?」
「え、あ、うん」
 ちょっと寂しい、と思うものの口には出来ず。彼の言葉に頷く。ふーん、と興味なさそうに相槌をうった洒井くんに、私も何も言えなくて、黙り込んでしまった。
 普段より、少しだけ視線が近い。普通に立つと三十センチ以上差がある私は洒井くんの視界に入ることは出来ないけれど、今は私は校舎内で、洒井くんはいくらか低い地面の上だ。目の前で風に揺れる前髪や、黒に近いその瞳を、現実感なく見つめていた。
「……吉倉は、大学どこ行くんだ?」
「あ、えと。他県の短大だよ。でも、家から電車で一時間くらいなんだけど。洒井くんは、プロ入りだもんね、すごいよね。おめでとう」
「ああ。サンキュ」
 洒井くん率いるうちの高校は、八月のインターハイで見事優勝し、洒井くんは大会優秀選手に選ばれた。それから色んなチームからスカウトを受け、地元の強豪サッカーチームに所属を決めたらしい。二学期の始業式で表彰されてたし、校内新聞にもインタビューなんかが載った。
 洒井くんは自分の道を信じて、どんどん強くなっていく。真っ直ぐに、進んでいく。その姿は眩しくて、寂しくて、それでも何処か誇らしい。勝手だけど、これが私の好きな人なんだよ、って胸を張って言える気がした。
 ニュースを聞いてからずっと、直接言いたかった台詞を、やっと言えた。ありきたりだけど、言えて良かった。洒井くんは私の言葉を聞いて、頷いてくれた。もう本当に、それだけで胸が一杯。
 近くで小鳥が囀っている。桜が舞い、柔らかな日差しの降り注ぐ、穏やかな午後。ここに洒井くんがいるから、ますます贅沢だと思う。胸を占めるぽかぽかした幸せに、頬が緩む。
 これが最後のチャンスだろう。これから彼はきっとサッカー選手として全国の人の目を奪い、ゆくゆくは世界に羽ばたつかもしれない。二人きりで話せるなんて、本当に、これで終わり。神様がくれた最後のチャンスなら、心から感謝する。
 ゆきに話したらきっと告白くらいしなさいよ!と叱られそうだけど、私は別に彼の記憶に残らなくても良かった。
 初めての恋。彼じゃなければ、私はこんな気持ちを知らないまま、一生を過ごしたかもしれない。何があろうと、彼を思った私は消えない。それだけで十分だった。
 俯いた彼を見つめながら、どうしようかな、と思いを巡らせる。今日一緒に帰ろうと約束したゆきもそろそろ待ちくたびれているかもしれないし、先生に鍵を返すには急がなくちゃいけない。でも、この時間も惜しい。彼がいいと言うまで、私は側にいたいから。
 ―ブチッ
 だけど、耳に届いた引きちぎるような音に、私は目を大きく開く。洒井くんは、学ランの第二ボタンを力任せに外していた。無理に外すものだから、糸が微妙に出てしまっている。いきなりの行動に絶句する私に、洒井君は目を合わせて。
「……え、」

 ぐ、と掴んだ私の手を、開かせると。――そのボタンを、しっかり握りこませた。

「……え?」
 ぱちくり、と訳が分からず瞬きする私を睨むように見つめる洒井くん。でもその頬は、
ほんのりと赤い。
 洒井くんの手。私の、手。第二ボタン。その意味は――。
「へぇっ!?」
 理解して、すっとんきょうな声が出た。顔が一気に熱くなる。
 嘘。何で。だって、普通第二ボタンって、好きな人にもらうもの、……好きな人にあげるもの、でしょう?
 真っ赤になって口をぱくぱくと開閉する私に洒井くんは、顔を顰めたまま、「そういうことだから」と口にした。
 そ、そういうことって……どういうことなの!?
 だけど、ぎゅ、っと握りこまれた手に、意識が集中する。視線を下ろせば、私の小さな手を握る、大きくて焼けた手。だけどそれは、あくまで優しい触れ方だった。
 私のこと、大事だ、って洒井くんが言ってくれてるって勘違いしちゃうくらい。
「吉倉」
 躊躇いがちの、優しい声。その声につられるように顔を上げると、いつも見ていた鋭い光はなりを潜め、その瞳は、懇願するような色を湛えていた。
「……受け取って、くれるか?」
 こんな声、聞いたことない。こんな色、見たことない。
 初めての表情に、翻弄される。これが今、私のためにあるなんて、信じられない。
 けれど触れ合う手と手が、これは現実だ、って教えてくれたから。
「……私で、……いいの?」
 震える声。冷たくなる指先。これで違う、って言われたらどうしたらいいんだろう。だけど彼は、そんなこと言わなかった。
 ため息と共に、ゆっくりと口角を上げて、優しく笑う。

「俺は、吉倉が――美哉が、いい」

 初めて呼ばれる、下の名前。
 想像したこともなかった。彼のこんな甘い声が、聞けること。
 それが私に、向けられること。

 ぽろぽろ、と熱くなった瞳から留まれなかった涙が零れる。頬を滑り落ちるそれに、彼は苦笑しながら優しく拭ってくれた。それにますます耐え切れなくなって、終いには子供のように泣きじゃくってしまい。
「洒井くん、好き、好き、……ずっと、好きだったの……っ」
 言うつもりのなかった告白を、ひたすら繰り返して。いつの間にか、私は彼の腕の中、彼にしがみついていた。いつまでも触れてくれるその優しい温もりに、心からの幸福を、味わいながら。


 

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