6. 〜tear〜


 プロ入りした彼と、他県の短大に通っている私。時間はなかなか合わないけれど、私の気持ちは変わらなかった。それどころか、未だに夢見心地ですら、あった。
 忙しくても毎晩彼は電話をくれたし、電話を出来ない時にはその旨を書いたメールをくれた。オフの日には、彼の家で一緒にDVDを見たり、並んで本を読んだりすることが多い。
 寛人――洒井くんにそう呼ぶように言われた――は、あんまり人混みが多いのは好きじゃないらしい。多分、街を歩いて騒がれるのが嫌なんだろう。最初の思い通り、チームで順調に実力を発揮している寛人は、すでに熱狂的な女性ファンがついている。私もあまりアウトドアなタイプじゃないから、家に来ないか、という寛人の提案に頷いた。
 ただ、彼が卒業してすぐ一人暮らしを始めたというのは誤算だった。実家は実家で緊張するだろうけど、一人暮らしの男の子の家に行くと言うのはどういう意味か分からない訳じゃない。
 初めてのお家訪問で緊張していると、寛人は苦笑して、私を抱きしめた。ますます固くなる私に、寛人は囁いた。
「美哉が準備出来るまで、俺は待つから。……だから心配するな」
「さ、……寛人」
 優しい言葉に、じわりと瞼が熱くなる。言葉を失う私に、寛人は笑って――でも、少しだけその笑みの種類を変えた。悪戯っぽい、子供じみた笑い。これまた初めて見る表情に、心臓がどくりと高鳴る。
「……でも、これ位は、許せよ」
 その言葉と共に、頬を包む温もり。え、と見開く私の目一杯に寛人の顔が、映って。――唇に、一瞬だけ、柔らかいものが掠めた。
「……。……!?」
「顔、真っ赤」
 ゆっくり、私の唇をなぞる寛人の指先で、今自分の唇に触れたものの正体に気付く。ぼん、と頭の中が爆発して、瞬間的に顔を真っ赤にする私に寛人は笑って、頬をつついた。

 いつも外のデートは、近くの自然公園に行った。平日のお昼頃だったから、いたのは子供やお母さんだけ。あっという間に気付かれて、子供にサッカーを教えて、とねだられた寛人は私を窺った。それに頷くと、子供と一緒にボールを蹴っていた。疲れたら戻って来て、私が作ったお弁当を一緒に食べて、シートを引いて少しだけ眠る彼。その横顔を見つめて、心から、幸せだと思った。
 寛人は無口なほうだし、私も仲が良い子とはよく話すけど、相手が会話を求めないならそれに従う。それに、寛人と過ごす無言の空間は、心地良かったから。
 起きて欠伸をする彼にお茶を差し出し、お礼に、と口付けをもらう。恥ずかしくて、でも、嬉しくて。帰りは二人、手を繋いで寛人の家に帰る。
 特別なことなんて、何もいらない。ただ彼の側にいられれば、幸せだった。欲がない訳じゃない。ただ、私にとっては寛人の側にいることが一番の贅沢なのだ。

* * *

 付き合って半年。その日は台風が近づいていて、午後の授業は突然休講になった。私は三限からだから、無駄足を踏むこともなく、何をしようかベッドで考えていた。
 その時、寛人から電話があった。
「もしもし、寛人?」
『……美哉?』
「うん、そうだよ。どうかした?」
 私の大好きな、低い声。でもその声は、いつもより随分掠れているような気がして。首を傾げると、電話の向こうで咳き込む音が聞こえた。
「寛人、もしかして風邪?」
『……ああ。悪い、美哉、今日暇なら来てくれないか……?』
「全然大丈夫だよっ。すぐ行くね」
 悪い、と謝る寛人を留めて、電話を切る。服を着替えて、一階に走った。
「お母さん。ごめん、これから寛人の家行ってくるねっ」
「えぇ?外、台風よ?」
「風邪引いちゃったんだって。大丈夫、すぐに帰って来るから」
 夕飯のビーフシチューを煮込んでいたお母さんは、私の言葉に顔を上げた。
 ちなみに、家族で私が寛人と付き合っていることを知っているのはお母さんだけだ。お兄ちゃんに教えたら話したいから紹介しろとうるさそうだし、親馬鹿なお父さんに紹介すると先走って「責任を取れ!」なんて言いそうだから、言えてない。
 私の言葉を聞いて、「あらあら大変」と呟いたお母さんは、タッパーに昨日の残りのおひたしや梅干しなどを詰めてくれた。他にビタミン飲料や、梨など、うちで病気になったらよく食べるものばかり。
「寛人くん、一人暮らしでしょう?薬とか、氷枕はあるのかしら」
「あ、そうか。分かんないから、とりあえず持って行こうかな」
 全部詰め込むと、鞄はかなりの重さになった。心配そうなお母さんに手を振って、家を出て行く。
 玄関を閉めると、ひどい風に、鞄が持って行かれそうになった。慌ててしっかり握り、傘をさして駅へ歩いていく。雨はそんなに降っていないけれど、その暗い色の雲からは、これからひどくなることは簡単に想像出来た。
 最寄り駅から、電車で二十分。寛人の家がある駅で降りると、雨が強く降っていた。電車に乗っている内に、随分天候が荒れたらしい。急いで歩いていたらばしゃばしゃと水たまりを踏んでしまい、スニーカーが水を吸って重くなる。
(これは、寛人に着替えとか貸してもらった方がいいかな)
 お願いできそうなら、シャワーも貸してもらおう。服はそんなに濡れていないし、とりあえず足だけ洗えば大丈夫だろう。しばらく歩くと、寛人のマンションが見えて駆け込んだ。
 三階建ての、割とこじんまりしたマンション。何でも十二戸しかないらしい。傘についた水を大きく降って払い、階段を上る。何度か来たので、もう間違えようも無い彼の家。だけど入る瞬間は、いつも少しだけ、緊張する。震える指で、ピンポンを押した。
 ―ピンポーン……
 聞きなれた音は、外の風のせいであまり聞こえない。そのせいなのか、反応が無かった。
(……寝てるのかな?)
 もしかしたら、電話の後、気を失うように寝ちゃったのかもしれない。そう思うと気が焦り、ノブを回すと、ゆっくりドアは開いた。私のために開けておいてくれたんだろうか。それとも、そこまで気が回らなかっただけなのか。声をかけようか迷いながら、寝ていたら起こすのは悪いだろうと思って、静かに暗い玄関で靴を脱ぐ。お昼過ぎなのにこんなに暗いのは、カーテンが閉まっているからだし、外も暗いからだろう。
 ―ガタッ
 奥で響いた音に、目を見開いた。何かが、落ちたような音。もしかして、ベッドから落ちてしまったのか。べたつく靴下のまま、フローリングを歩いて、奥のベッドルームの扉を開ける。
「寛人っ――」
 一歩踏み込んで、彼の名前を、呼ぶ。
 カーテンが閉まったまま、暗い室内。だけど彼がいることは、分かった。ベッドから、布団ごと落ちている寛人。黒いTシャツに、ジャージのズボン。いつもと同じような寝巻。
 だけど。
「美哉……」
 電話で聞いたのと同じ、掠れた声。だけど私は、その唇に目を奪われた。

 滲む、赤。

 それは暗いこの空間で、何故だかはっきり、映って。

「……なぁに、あんた」
 床に両手をついた寛人の下、女の人の声。呆然と固まる私の視界に、彼女は突然、現れた。不快そうな目で私を見て、寛人の腕に、触れる。その唇には、少し剥げた真っ赤な口紅。それは、寛人の唇にのった色と、おんなじ。
「…………あ」
 しばらくして、間抜けな音が口から漏れた。じわじわと脳に侵食する、その赤い色。

 どうして、寛人の唇と彼女の唇に、同じ赤がのっているのか。
 どうして、おんなのひとが、寛人のベッドルームにいるのか。
 どうして、二人は床に倒れ込んでいるのか。
 どうして、彼女の服装が微妙に乱れているのか。
 
 その理由を、知りたくない。認めたくない。

 べちゃり、靴下が不快な音を立てる。その音に、自分が後ずさっていることに気が付いた。目を見開いた寛人は、立ち上がり私に向かって、手を伸ばす。
 やめて。やだ、やだ、やだ、やだ――!
「美哉っ!!」
 気付けば、身を翻して走っていた。スニーカーを突っ掛けて、玄関に置いてあった傘を握り、寛人の家から飛び出す。
 彼の言葉を、何も、聞きたくなかった。

 駅まで走って、ホームのベンチに座り込む。荒い息と反対に、肌に纏わりつくびしょ濡れの服のせいで、体温はどんどん下がっていく。でも、そんなのももう、どうだって良かった。
「っう……」
 ぼろぼろ、雨と涙が混じって、頬を流れ落ちる。口に広がるしょっぱい味に、また涙が零れる。

 ――分かっていた。いつか、彼が私の手を離す日が、来ること。
 最初から、釣り合わないことは知っていた。優しい日々に紛れて、気付かないふりをしていただけで。
 だから彼が私以外の人の手を選ぶだろうことも、分かっていたの。

 不意に、バッグの中の携帯が震えたのが分かった。取り出して見つめると、しばらく震えた後、電話は切れる。着信履歴はすでに十件、全部、寛人。黙って、携帯の電源を落とす。やって来た電車に乗り、揺られながら、家に帰ったら携帯の電話番号を変えることを、決めた。

* * *

 家に帰ってから三日、風邪で寝込んだ私は回復するとすぐに携帯の機種変更と一緒に、電話番号とメールアドレスを変えた。三日の間に溜まった寛人からのメールも着信も、全て見ないで消す。
 まさか追いかけてこないとは思ったけれど、お兄ちゃんにお願いして二駅離れた駅まで車で送ってもらい、別の路線を使って学校へ通った。
 寛人は私の最寄り駅は知っているけど家は知らないし、連絡網に家の番号が書いてあるけど、多分そういったものは実家に置きっぱなしのはず。一度、家に電話があったけど、お母さんにいないふりをしてもらった。
 そして短大近くのなのはな保育園に就職を決めてすぐ、私は家を出て一人暮らしを始めて、完全に彼から離れた。
 寛人は私が一人暮らしを始めたすぐ後に、ワールドカップ日本代表に選ばれた、とニュースで報道されていた。その時の動きが世界に評価されて、ワールドカップ終了直後。一昨年ヨーロッパリーグで優勝したドイツのチームにスカウトされ、移籍を決めたと言う。あちらでも順調に成果をあげ、移籍半年でスタメンとして試合に使われたのだと、ニュースキャスターは熱く語っていた。

 テレビに映る彼の姿を見る度に、やっぱり私達は、生きる世界が違ったんだな、と思う。嫌みでも何でもなく、心から。高みを目指す彼は、いつの日か私に嫌気がさしていただろう。その日が少し、早く来ただけ。
 ――頭ではそう、分かっていたのに。
 相変わらず、彼を見ると心がひりひり痛みながら鼓動が跳ねる自分に、気がついていた。いっそ、あの時彼の電話に出てしまえばよかったと思ってしまった時には、愕然とした。
 全く見ることもなければ、この気持ちが収まるかもしれない。そう思って、家のニュースなど滅多につけなくなった。彼に関するものを見なければ、大丈夫だろうと思って。
 でも結果は、駄目だった。見なくても意識して、見れば全神経が持って行かれる。
 それでもゆきのお陰で、いつかは忘れるだろうと、やっと心から信じられたの。もう六年。今度は、一人じゃなくて、ゆきも一緒にいてくれるから。緩やかに忘れていけるのだろう、って。
 なのにどうしてまた、私の前に現れたの――。
 


 

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