Extra 〜ある日の二人〜


「酒、飲もう」
 ――実家に寄ってきたはずの寛人がそんなことを言ってバッグを掲げたのは、とある休日のことだった。

「……別にいいけど。寛人、お酒好きなの?」
「特には」
 チャイムが鳴り、寛人を出迎えてすぐにそんなことを言われたから、まず目を丸くする。その後尋ねると、寛人はすぐに首を振る。そうだよなぁ、と思って首を傾げた。
 寛人は自分がスポーツ選手と言う自覚がちゃんとしている人なのか、元からそういう嗜好品を好まないのか。再会して二カ月近くなるけど、お酒を飲んでるところを見たことがない。食材の買い出しは寛人がやってくれてるけど、お酒が入ってたことはないし、一緒に買い物に行ってもお酒コーナーには見向きもしない。私も家で飲む程好きではないので、別に良かったんだけど。
 でも、玄関先で立ち話をするのもあれだし。とりあえず中に入ってもらうことにした。

「夕飯食べたら、酒飲もう」
「うん、分かった。じゃあ、先にお風呂入って来ちゃったら?」
「……ああ。じゃあ、お先に」
 リビングに通してもそんなことを言い続ける寛人。そんなにお酒が飲みたい気分なのだろうか。
 とりあえず、お風呂を勧める。まだご飯出来てないし、炎天下を歩いて来て汗も掻いてるだろうから。それに寛人は素直に頷くと、リビングを出て行った。
 その背中を見ながらもう一度首を傾げて、コンロの火を止めた。

* * *

 そして、約束の夕食後。
 最近は大体、片づけを寛人がやってくれるので、その間に私がお風呂に入る。本当は、寛人と一緒にいる時にお風呂に入りたくない。お風呂が嫌というか、寝間着になるのに抵抗がある。寛人みたいに、Tシャツジャージ姿で様になる容姿でもないから尚更。
 好きな人の前では、出来るだけ可愛い格好をしたいと思うのは普通なはず。だけど私は昔からパジャマ派で、可愛い感じの――いわゆるルームウェアを持っていなくて。最近は何枚か買ったので、大分気持ち的に楽だけど。
 今日はパイル地の、キャミソールに五分丈パンツ。色はパステルオレンジで、レースがついてたりリボンで胸元から切り替えが入ってたりで可愛いんだけど、キャミソールなので肩が丸出しなのだ。クーラーが効いた部屋では寒いし恥ずかしいしなので、パーカーを羽織ってリビングに向かった。
「お風呂入りました」
「ん。じゃあここ」
 リビングに行くと、すでに片づけを終えたらしい寛人はソファに座って本を読んでいた。声を掛けるとすぐに振り返り、本をテーブルの上に置く。そして、自分の足の間を指差す。毎度のことながら妙な気恥かしさを覚えつつ、素直に背を向けて床に座った。
 カチ、と音がしてすぐ、温風が吹く。そして、髪の毛をかき混ぜるようにして寛人の指が動いた。
 ……寛人が、うちでお風呂に入るようになってから。何故か、お互いの髪の毛は相手が乾かす、という習慣が出来てしまった。
 きっかけは、確か髪がびしょ濡れのままで出てくる寛人の髪を私が乾かしたこと。お礼に、と彼は私の髪を乾かしたがった。恥ずかしいし別にいいよ、と断ったものの、流されてしまう。一度自分で乾かしたら、寛人はすごく拗ねた挙句にドライヤーを隠してしまったし。
 ――私自身、この時間は好きなんだけど。
 人に髪を触られるのって気持ちいい。美容院で受けるシャンプーやマッサージも、なんであんな気持ちいいんだろう、って思うくらい。
 特に、寛人はすごく丁寧に乾かしてくれる。私は自分でやる時、痛むとかも考えないで強風でぱぱっと済ませてしまうのだけど、寛人はいつも弱風で、時々頭皮のマッサージもしながらやる。慣れてしまうと、自分でやる気が起きなくなるのが難点になる程の気持ちよさ。
 ちょっとうとうとしているとブローが終わり、次はブラッシング。これまた丁寧に根元から毛先に掛けて梳かしていってくれた。
「ありがとう」
「うん」
 振り返ってお礼を言うと、ちょっと誇らしげな顔。それがとっても可愛くて、小さく笑った。

「これなんだけど」
 ソファから立ち上がり、寛人がキッチンに向かう。持ってきたのは、ボトルだった。しかも。
「し、しーえいち、あーてぃーいー……?これ、何て読むの?」
「シャトーディケム」
「へー、しゃとー……シャトーディケム!?」
「知ってるか?」
 読み方が分からずローマ字読みした挙句、あっさり放棄した私に、寛人が正解を言った。それに頷いた後、自分で言って、その名前に目を丸くした。
 知ってるか、って。知らないはずがないでしょう!飲んだことはないけど、すごく美味しいワインで、すごく高い、ってことは知ってる。しかもこれ、書いてある数字が十年以上前なんだけど……!
 お酒飲むって、酎ハイとかそんなのかと思ったんだけど。寛人の基準って、こうなの……?
 驚きすぎて身体から力が抜けそうな私に気付かず、寛人は床に座る私の隣に並ぶ。そしてどこから持ってきたのか、細身のワイングラスを二つとコルク栓抜きを取りだした。
「あ、グラス……」
「美哉の家、ないから買ってきた」
「あ、そ、そうなんだ」
 未だにショックから抜けきれないけれど、とりあえず、話すことは出来た。だけど視線は、寛人が持つボトルから離れない。ハーフボトルじゃなくて、フルボトル。いや、ハーフボトルが存在するかどうかすら知らないけれど。
 ――そしてついに、蓋が開く。その瞬間、ふわりと甘い香りがした。グラスに注がれるのは、柔らかな琥珀色。とても綺麗な色に、うっとりと見惚れる。グラス両方に注ぐと、寛人はグラスをテーブルに置いた。そして私にも、持つように促す。慌てて握り締めると、寛人は小さく笑って。
「乾杯」
「……乾杯」
 チン、と合わせたグラス同時が軽い音を立てる。煽る彼を見て、私も慌てて、口をつけた。
 とろりとした、濃密なはちみつのような味。だけどわざとらしいものではなく、爽やかな果実の味も感じる。さらさらと流れ込み、舌の上に広がるのは、極上の甘さで。
「……美味しい」
 そんな安易な言葉で片付けて良いものか分からないけど。本当に、美味しい。それしか言えない。
 しばし陶然となる私に、寛人は嬉しそうに頬を緩めた。
「美哉はやっぱり、甘口の方が好きなのか」
「あんまり、ワイン飲んだことってないんだけどね。ワイン特有の苦みと言うか、渋みが苦手で……」
「ああ」
「でもこれ、本当に美味しい!すごい、さらさら入っちゃう」
 言いながら、もう一口。やっぱり、美味しい。一口飲んではほう、と息を吐く私の横で、あっさり飲みほした寛人は二杯目をグラスに注いでいた。
 こんな美味しくて高いものを、そんなにあっさり……。
 まぁ、私と寛人じゃ稼ぎは全然違うんだろうけれども。それにこれは寛人が買ってきたものだから、文句は言わないようにしよう。……値段も怖いので、聞かない。

 ソファに背を預けながらぽつぽつと話をして、極上のワインに夢中になる。寛人とこの部屋でいる時って、すごく、不思議。時間の流れがすごく遅いような、早いような。まるで世界から切り離されたように、穏やかな時が続く。
 何杯目か分からないけれど、飲んでいて少し身体が熱くなってきたような気がした。さすがに酔ったのかもしれない。一旦水でも飲もうかな、と思ってグラスをテーブルに置いた。そう言えば、私以上に杯を重ねている寛人は、平気なんだろうか。
「寛人?」
「ん?」
 話しかけると、しっかりした返事。どうやら、お酒に強いみたい。安心して、頬を緩めた。
「水取って来るけど、いる?」
「んー……大丈夫」
 緩慢に首を振り、またグラスに口をつける。ぼうっとそれを眺めていると、濡れた唇を、ぺろりと赤い舌が舐めた。その光景に目を奪われていたことに気付いて、慌てて立ち上がる。
 キッチンに入り、冷蔵庫の前に座りこんだ。扉を開けると、冷気が火照った頬を冷やす。でも、頭にはさっきの光景がぐるりと回って。
(……そっか。今日、キスしてないんだ)
 唐突に、その理由に思い当たった。彼の唇が、妙に気になる理由。
 だけどそれもそれで、何か変だ。だって、昨日も一昨日もちゃんとしたのに。一日空くくらいで気になってしまう、って。
(もしかして欲求不満?)
 それも、重度の。
 そんなのまずい。男子高校生でもないのに、もういい年なのに、ていうか私女なのに。
 ――寛人に知られたら、軽蔑されちゃうかもしれない。
 そんな不安も込み上げて来て、慌てて大きく首を振った。何やってるんだか、もう、一人で不安にならないって、なんでも言うって約束したのに。
 ミネラルウォーターのペットボトルを取り、それを頬に押し当てる。そうすると暴走しかけた思考回路がストップするようで、小さくため息を吐いた。
「美哉」
「ひゃっ!?」
 だけど、突然声を掛けられて変な声を出してしまった。
 それを気にもとめず、横から伸びてきた腕が、冷蔵庫の扉を閉める。振り返ると、腰を折り曲げた寛人が、私の顔を覗き込んで笑っていた。
「冷蔵庫開けっ放しじゃ、駄目だろ?」
「あ、ご、ごめん」
 いつもより無防備な微笑みに、心臓が高鳴る。声も甘くて、少し冷えたはずの体温が、また上がった。
 私がどもったせいか、寛人はくつくつと笑い、私を指差す。
「それ」
「え?」
「俺にも、頂戴」
 何かと思ったけれど、手の中のペットボトルであることに気付いた。さっきは断ったのに、やっぱり、飲みたくなったのかな?よく見るとうっすら頬が赤いし、ちょっとは酔ってるのかもしれない。
「どうぞ」
「サンキュ」
 蓋を開けてペットボトルを渡すと、寛人は目を細め、にっこり笑った。初めて見る表情に、頬が熱くなる。
 ……やっぱり、酔ってる。こんなふにゃふにゃした寛人の笑顔、見たことないもの。
 ごくり、と音を立てて水を飲む寛人。私はと言えば、立ち上がったところで寛人がいるから動けないし、仕方なくその場に座ったまま。
「美哉は?」
「ん?」
「美哉は、飲んだ?」
 何口か飲んだら満足したのか、寛人は声を掛けてきた。その質問に、私は首を振る。飲もうとする前に、寛人に声を掛けられたから。
「欲しい?」
「う、うん」
 気付くと寛人はしゃがみ込み、何故かじりじりと距離を詰めてきた。それに思わず、後ろに下がる。だけどすぐに、冷蔵庫に阻まれた。
 ……何でだろう。これ以上逃げられないことに、ものすごい不安があるんだけど。
 気のせいだろう、と言い聞かせても、胸のざわざわは消えない。そんな私に、寛人は首を傾げて、艶めいた笑みを零し。
「……じゃあ、あげる」
 寛人は、一口水を煽る。あ、と私が声をあげる間もなく。
 ――何故か、唇が重なっていた。
「っん、!?」
「……」
「ん、くっ、……ふんんっ」
 床に置いたままの手が重なり、ぎゅっと握られる。温度差が、激しい。クーラーの効いた室内で、床は冷えているのに。寛人の手は、熱いから。
 重なる唇から、流れ込む液体。生温いそれは水だと気付き、さっきの寛人の行動の意味も理解した。だけど同時に差し込まれた舌に、頭が真っ白になる。強引に絡められて、歯列をなぞられて。そんなことされたら、飲みこむことも出来ない。
「ふぁ、」
 口の端から、水がぽたぽたと零れていってしまう。それは顎に落ち、首筋に流れて、やがてルームウェアに染み込んだ。
 それに気付いているはずなのに、寛人はキスを止めてくれない。息が出来なくて、呼吸が乱れて。何もかも奪うようなそれに、頭がくらくらした。
 ……そして、ようやく終わった時には私はもう、身体中の力が抜けてしまっていた。けれど首筋を這うぬめりとした感触に、目を丸くする。
「ひ、寛人何してっ」
「……水、零れてるから」
「ん、や、……い、いいから、っあ」
 顎を、首筋を、胸元を舐めながら、時折強く吸い上げる。最初は痛かったけど、今ではその痛みが、甘い痺れも一緒に連れて来る。
 ぼやける視界には、薄暗いキッチンと、ゆらゆら揺れる黒髪。柔らかいそれは、私の顔を擽る。口の中に入りそうで顔を背けると、気に入らなかったのか、鎖骨に軽く歯を立てられた。
 一通り舐めると満足したらしく、顔を上げる。相変わらず、ふにゃふにゃした笑顔。よくよく見ると、その目はとろんとしていた。これは、相当酔ってるみたいだ。
 ……そうか。寛人は酔うと、こんな無防備になっちゃうのか。
 これは他の女性がいるところでは、飲んで欲しくないな。寛人に興味無い人でも、こんな可愛い顔見せられたら絶対好きになっちゃう。言いようのない不安と独占欲に、正気になったらちゃんと言おう、と心に決めた。
 だけど寛人はそんな私の気持ちも知らずに、ひどく嬉しそうに頬を緩めて、私を抱き締めた。
「美哉、美哉、美哉」
「……何?」
「何でもない」
 ……なに、このバカップルみたいな会話。普段の寛人から想像もつかない。いや、会話や態度を見たら普段から激甘なんだけど、こういうバカップル丸出し!っていう感じではないし。
 考え込む私の髪を優しく梳きながら、寛人はぽつりと零す。
「……やっと、美哉と酒飲めた」
「……え?」
 その声は、どこか悲しげで。顔を上げると、寛人は相変わらず笑ってる。だけどそれすら、何だか切なく見えてしまう。
 ――やっと、って?
「あのワインな。六年前に買ったんだ」
「六年、前?」
「……美哉と。二十歳になったら、一緒に酒、飲みたくて」
 彼が額をこつりと合わせて、抱き締める腕に力を込めて。そうなると必然的に、視界に、寛人しか入らない。寛人しか、見えない。
「先走って、初めての給料であれ、買って。結局無理だったけど、捨てることも、飲むことも出来なくて。ドイツに行く前、親父に好きにしていいから、って言って渡したんだ。なのに今日、実家帰ったらあれ持たされた」
「……」
「お前が買ったんなら、お前が飲め、って。そしたらもう、美哉と飲むことしか、考えられなくて」
 嬉しい、と呟いて、私の額に軽く口付ける寛人。それを受けながら、私は急に、涙が零れた。

 ――私が、彼の側にいながらいつか離れる未来に思いを馳せていた頃。寛人は、私との未来を想像してくれていた。無条件に、それを信じていてくれた。
 彼の想いの深さを知らされる度、私は、複雑な想いになる。
 離れていた間の彼の孤独を思い悲しくなり、寂しくなり、そんな風にさせた自分に憤りを覚え、それでも、その気持ちが嬉しくて。
 いつも泣きながら、たった一つの言葉しか、言えないの。

「ひろひ、と」
「うん」
「す、き……大好き」
「……俺も」
 熱い手が、私の涙を拭って。唇に軽いキスが落ちる。それはさっきのキスと違って激しさはなくとも、愛しさに、優しさに溢れていた。
 そして目を開けば、彼は嬉しそうに頬を緩めて、私だけを見つめている。これが夢じゃないと知らせるように、抱き締める手に、力を込める。
 そして。

「――愛してる」

 吐息交じりに囁かれる愛の言葉に、私は今日も、幸せを噛み締めるのだ。 


inserted by FC2 system