その夜惑わされたのは、
ヒトだったのか
マモノだったのか

全てはもう、分からない


MAGIC EYES(1)


 暗い部屋に帰り、ドアの鍵を閉める。一人暮らしの家は真っ暗で、迎える人間は存在しない。小さくため息を吐いて靴を脱ぎ、男は寝室へ歩を進めた。
 扉を開けば、大きな窓。カーテンを閉めていないそこから漏れる月の光は明るく、青白く部屋が照らされる。その横に置かれたベッドに今すぐ横になりたい衝動を抑えて、窓を開ける。途端に吹き込む風は、どこか冷たくて。十月の空気は、容赦なく部屋を冷ました。それでも、窓を閉めようとは思わない。自分の中の淀んだ空気を吹かせるように、恍はそのまま目を閉じる。
「はぁ……」
 
外の風景も、全て同じなのに。どこか色褪せて見えるのは、自分の心のせいだ。今日別れを告げた女のヒステリックを思い出して、彼は小さく肩を竦めた。
 別れは、わかっていたはずなのに。急激にならないように、少しづつ距離は取ったつもりだった。なのに、相手にとってもそうだった訳ではないようだ。
『何で!?何でいきなり、そんなこと言うのっ!?』
 
泣きながら、叫んだ「元」彼女。それを見ながら、自分は何の感慨も覚えなかった。ただ泣いている目の前の女を、見つめるばかりで。欠落する自分の感情に、苦笑すら零れそうになったほどだ。難航する話し合いに頭を痛めながら、何とか別れ話を遂行したのはつい一時間前のこと。友人に話したら、また顔を顰められるののだろうな、と思いながら女を家へ送った。
「……いつから、こうなったんだろうな」
 
目を開き、青白い月を眺める。真ん丸なそれは、綺麗ながら、どこか寒々しくて。辿るように、恍は手を宙へとかざす。
 空虚な自分の胸の内。決して埋まることのない、ぽっかり空いた穴が自分の中に確かに存在する。
 大きく息を吐いて、そろそろ寝るか、と一人ごちてカーテンに手を掛けた時。
「?」
 
――月に一つ、大きな黒い点が浮かんだのを、彼は見た。
 その点は、徐々に大きくなる。いや、違う、近付いている―!?
「っわ、」
「きゃあああああ!!」
 
肺から声を絞り出せた時には、点はすでに、『人』になっていた。大きな悲鳴と共に、恍の元へ突っ込んでくる小さな身体。腹部に思い切り受けた衝撃に、彼はそのまま身体を後ろへと倒れこむ。激しい痛みと共に、背中から床のラグに。かはっ、と肺から空気を吐き出し、恍は無意識の内に止めていた呼吸を繰り返す。
「な、に……」
 
掠れた声で、呆然と呟いてしまう。何が、起きたのか。骨の何本か行っていそうな痛みだったが、今は痺れだけ残る。
 違う、問題はそこじゃない。今、自分の上にいるのは、『何』なのか。
 冴える月に被さる二本の線。それはぴくぴく蠢き、ばさりと音を立て、姿を露わにする。それは、黒い羽根だった。蝶のようだが、模様もなく真っ黒だ。どちらかと言えば、写真で見た蝙蝠の羽根に近い気がする。 それに手を伸ばそうと、恍が腕を上げた時。
「ん、」
 
耳を震わせる、微かな声音。頭を押さえ、彼の上からゆっくり身体を起こす、一人の少女。小さなその身体は、漆黒のドレスに纏われている。シルクのような滑らかな触り心地に、ふわふわと膝丈のフレアスカートの下に広がるレース。腰に長いリボンが揺れ、胸元は大きく開いている。衣裳だけ見れば、どこかの金持ちのようだ。滑らかな黒髪も、さほど普通の人間と変わらない。
 けれど。
「!?」
 
彼女が腕を、退けた時。現れた瞳に、恍は息を呑んだ。
 ――深い深い、黒緑の瞳。
 けれどそれには、どこか魅入るような、誘惑するような輝きが灯り。しっとりと艶を含んで、彼を観察するように見つめた。象牙のような肌は、月光の下で青白く光る。
 不意に彼女は、そのモノクロの容姿の中、不釣り合いな真っ赤な唇を歪める。その笑みは、何故か絶世の美女にも感じられ。言葉を失う彼の首筋に、冷たい指が触れる。動けない恍のシャツはゆっくり寛げられ、彼女がにやりと笑んだ、瞬間。確かに覗いた見えた牙。彼は、反射的に。

「ひぐぅっ、」
「あ」

 その身体を自分の上からつき落とし、床に叩きつけていた。

 恍が床に少女を叩き付けた瞬間、彼女は意識を失った。顔色も青白かったし、体調が悪かったのかどうなのか。見知らぬ女を部屋に上げるのもどうかと思ったが、仕方ないのでベッドに寝かせた。
 シャワーを浴びて戻ってくると少女は目覚めていて、元気に吠え始めた。
「ひ、酷いですっ、いきなり殴るなんて」
「お前が俺を襲おうとしたんだろ」
「そ、それは悪かったですけど、……すみません」
 
電灯の下でまじまじ見れば、絶世の美女という考えはまず浮かばない。
 白い肌に黒髪、神秘的な瞳。幼げな言動から見ても十五、六のあどけない少女だ。確かに可愛らしい顔立ちはしているが、それ以上の魅力はない気がする。けれど先程、確かに恍はそう感じた。まるで、その瞳に何か魔力でも宿っているように――。
「……まずい」
「?」
 
非常に面倒なことに巻き込まれた気がする、と恍はため息を吐いた。生まれて二十年、こんな事態に遭遇したことはない。だが空から降って来た少女(羽根つき)なんて、相手をしても碌な結果は生まないだろう。この状況に突っ込みたいことは多いが、今ならまだ忘れられる。驚きも困惑も浮かばない自分に、薄く笑いながら。恍は小さく、外を指差した。
「とりあえず、帰れ」
「え?」
「何も聞かないから、出て行け」
 
ベッドに座り、彼女の肩を軽く押す。今更気付いたが、羽根は消えている。出し入れ出来るのか、それとも取り外したのか。どちらでもいい。自分には、関係ない。けれど少女は、そうではなかったようだ。焦ったように恍のシャツをぎゅっと握りしめ、口を開く。
 まずい。そう思い、止めようとしたのも、間に合わず。

「じゃあ、あなたの血、くれませんかっ!?」

 聞こえた台詞に、うんざりした。

「……お前、頭おかしいんじゃねぇの?」
「ち、違いますっ」
 
濡れた髪をぐしゃりと撫でながら、恍は少女に問いかける。彼女は、慌てて首を振った。目の前の青年は非常に胡散臭そうな目で彼女を見つめている。この手の目には、よく遭遇する。だから、慣れている。唯一珍しいとすれば、この青年がそこら辺にはいない程、美麗な顔立ちをしていることだ。こちらの世界では、ほとんど見掛けることはない。射抜くような鋭い切れ長の瞳は、さらさらの黒髪の間から覗く。服の上からでも分かるしなやかな筋肉質の身体は、バランスの良い細身で。その白くがっちりとした首筋に、彼女は唾を飲み込んだ。たまらなく誘われる香りに、自分が溺れそうになるのを自覚しながら。
「あのですね、私、吸血鬼なんです」
「……はぁ」
 
それは疑問だったのか、相槌だったのか、ため息だったのか。本人にも分からない。とりあえず、受け入れたくなかった台詞だったのは確かなようだ。
「で、吸血鬼を殺そうとするハンターさんっていうのがいるんですよ。今晩狙われちゃって、反撃するのに力を使ってしまって。血を飲まないと体力が回復しないんです」
「それで俺に、血を寄越せと?」
「はいっ!!」
「断る」
「ええええええ!?」
 
にこにこと説明されるが、全く受け入れる気はない。満面の笑みで頷くのも、頼むから止めて欲しい。恍がばっさり断りを入れると、少女は不服そうに声を上げる。了承の返事の方が少ないだろう、と思いながら彼女を睨んだ。
「俺に利益がない」
「そ、そんなことないです。人助けですっ」
「ボランティア精神は持ち合わせてねぇし」
「う、うう、」
 
縋りつくように、恍の腕を握る少女。涙目で睨まれても、何の感慨も浮かばない。美女がそんな目で見上げるならともかく、幼子のような仕草では興ざめだ。乱暴に腕を振り払う恍に、彼女は必死の形相で縋った。
「お願いします、何でもします、」
「嫌だ。何で俺に拘るんだよ」
「だっ、て、」
 
人間だって、顔の良い異性は好むだろう。魔物と呼ばれる種も、そうだ。容姿の良い『牡』にたまらなく惹かれる。吸血鬼にとっては、被食者が極上の容姿であればその血は甘美な味となり、大きな力を与える。今この瞬間も、たまらない芳香を匂わせる目の前の人間に、彼女は虜となっている。
 ――間違いない。この人の血は、最高の時を味あわせてくれる――
 そう確信し、強引にそのシャツを掴んだ。
「一度だけで、いいから。痛くしないです、本当にちょっとだけです。……駄目ですか?」
 
しゅん、と視線を落とす少女を、恍は真正面から見据える。人外の存在と言う彼女。決してそうは見えないが、先程見えた牙や羽根はその証拠かもしれない。
 黙ったまま、その顎に指を掛ける。素直に顔を上げた彼女は、電灯にその黒緑の瞳を煌めかせた。
 ……その瞬間、背筋にぞくりと熱が走った。
 震える瞳が、まるで魔力でも持っているかのように。もしかしたら本当に、魔力を持つのかもしれない。人間を魅入らせ、血を簡単に奪い取れるように。
 事実はどうであれ。恍はその時、確かに魅入られたのだ。目の前の少女に、仄かな熱を、欲を、植え付けられたのだ。
 黙って彼女の頬に指を滑らせれば、ひんやりした感触。目を閉じてされるがままになっている少女に、何故だか無性に苛ついた。純粋そうな言葉も態度もあくまでフリであって、いつもこの手で男を貪っているのかもしれない。そう思えば、同じように騙されそうになっている自分にたまらなく腹が立つ。けれど、その瞳に捕われる快感を知れば、後には引けそうになかった。
 もう一度。あの『絶世の美女』に、会いたくなってしまったから。
「何でもする、って言ったな?」
「え、あ、はい……?」
 
ぼんやりと瞬きを繰り返す目の前の少女に、恍は唇を吊り上げる。思わず見惚れてしまいそうな妖艶な微笑みに、彼女は頬を赤く染め上げた。
 いけない、いけない。魔物である自分が人に捕われるなど、あってはいけないのに。その瞳や自分に触れる指、低い声、全てに精神が、苛まれる。そんな自分から目を逸らしたくて、目を伏せたのに。合わせた瞳に、鼓動がうるさい。
 ……最近はハンターが多かったから、女の人でも我慢していたせいか。久方ぶりの、しかも極上の男性に緊張しているんだろう。自分をそう納得させ、彼女は笑んだ。
「じゃあ、」
 
けれど、その小さな肢体は、柔らかなベッドに押し倒され。ゆるりと圧し掛かる大きな影に、彼女は目を瞬かせる。その様子にくつくつと喉を鳴らして恍は笑う。
「――抱かせろよ」
 
低く落として、その耳元に囁く。限界まで目を見開いた少女に笑いながら、黒髪に指を通した。
「お前を、俺に寄越せ。それなら考えてやる」
「、え……?」
 
腰まである長い髪。見た目通り、触り心地は悪くない。一筋を掬って毛先に口付ければ、物慣れぬ娘は頬を染めた。
「む、無理、ですっ」
「へぇ、いいのか?やるって言ってるのに」
 
先程から、彼女が自分の首筋をちらちら見ているのは分かってる。わざとらしく目の前でシャツのボタンを緩めて首筋を無防備に晒せば、ごくりとその喉が鳴った。面白い程素直な反応に、認識を改める。どうやら、男を貪ってはいなさそうだ。これでも、それなりの数の女を相手にしている。反応で相手が男に慣れているかどうかは分かっているつもりだ。
 ならばまた、面白い。男に慣れていない魔物の女を、快楽に墜とすのも。
 面倒なことは、嫌いだ。だが、こんな機会はそうそうない。恍はひどく愉しげに、顔を歪ませた。
「や、駄目……っ、」
「本気で?欲しいんだろ、好きにしていいんだぞ」
 
悪戯に、その喉に噛みついてみせる。びくりと震える身体は、本能的な生命の危機を感じたからか。だから謝罪替わりに、見せつけるように今度は舐めてやる。息を呑む彼女の瞳には、薄ら瞳が滲み。
 そして強い、風が吹く。
「……っ」

 
カーテンの隙間から漏れる月光に照らされた彼女の瞳は、最初に会った時と同じ。
 ひどく、美しかった。

 動けなくなった恍の胸に、軽い衝撃が走る。軽やかに彼の腕を飛び出した彼女は、振り返らず、月を背景にベランダに立ち。ドレスのリボンを揺らめかせながら、赤い顔のまま、恍を睨んだ。
「今日は、帰りますっ。血を飲むどころじゃなくじゃなくなっちゃうっ」
「へぇ、いいのか」
 
やっと動いた身体に滾る熱を持て余し、彼女に皮肉っぽく笑いかける。一歩、二歩。ベランダへと歩を進め、彼女を見下ろせば、唇を引き結んだ。
「絶対また来ます!!その時までに別の条件を考えてくださいっ」
「俺はそれしか、欲しくねぇんだけど」
「駄目ですっ、わ、私キスもしたことないのに、吸血のために身体なんてっ」
 
自分で言ったくせに、照れてるのか。真っ赤に染まった頬に、吹きだしてしまう。そんな恍を恨めしげに見つめ、彼女はゆっくり羽根を広げた。
「私、ミズキと言います。あなたは?」
「恍」
「コウ、さん」
「呼び捨てでいい」
「コウ」
 
どこか甘い声で呼ばれるカタコトの自分の名前は、陶然とする響きを持っている。目を細めてそれを聞きながら、恍は頷いた。ミズキは嬉しそうに満面の笑みを浮かべ、とん、と地面を蹴ると月に向かって飛び上がる。揺れるスカートを、目の端に留めながら、彼女だけを見据えた。
「忘れないで。あなたの血は、私のものになることを――」
 
黒緑の瞳を揺らめかせ、空へと飛び立つ黒い影。それを追いかけ、恍は小さく苦笑した。

 ああ。もしかしたら、自分がもう、墜ちてしまっているのかもしれない――。


   

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