※この回、暴力・暴行表現を含みます。苦手な方はご注意ください。


16.弾けた心(2)

「……は、ぁ……っ」
 
何度か人にぶつかって、何度も転んで、私は辿り着いた、どこかの空き教室。華やかな空間から離れ、シンとした教室は、埃っぽく、そして湿っぽくて。力無く扉を閉めた後、私はそのまま、扉に背を預けて座り込んだ。
 走り回って、息と鼓動が荒い。ゼエゼエと、やけに大きく教室に響くそれは情けなく、こめかみに流れる汗と一緒に、頬を涙が滑り落ちた。

「ゃだっ……」
 
止めて止めて、止まってよ。このままじゃ、また思い出す。青竹先輩の目を見た瞬間蘇る、アノ日の記憶が。








 七月の、少し肌寒い日だった。その日は、朝からどんよりした曇り空で。台風が近付いていた。七時過ぎに部活が終わった後、私はいつも通り、八時くらいに学校を出たんだ。ただ、女バスは早く終わってたから、帰り道が一人だったくらい。
 ……そう、いつもと同じで、終わるはずだったのに。
 丁度部室を出た瞬間、雷が、鳴った。雨は降って無いのに、雷だけっていうのも変な気がしたけど。まぁそんな日もあるかって思って、歩き始めた。いつ雨が降るか分からないから、勿論早歩きで。
 
裏門をくぐり、外に出た。うちの学校の部室棟は、校舎から離れ、奥の方にあるんだ。正門からの道は街灯もちゃんとついてるし安全なんだけど、そっちだと時間がかかる。入部したてで気疲れも多かったから、早く帰りたくて。その日は一人で裏道を歩いた。こっちだと、五分は短縮できる。イヤホンを耳にかけ、歩き出した。
 そうして、十分も経った頃だろうか。あと少しで駅、でも何故かその道は三百メートルくらい、街灯が無かった。暗闇で怖かったんだけど、仕方ない。ここしか、道は無いのだ。ため息を吐いて歩き出した。と、同時に気付く。
 電柱の下、蹲っている人。ほっそりした体付きの男の人だ、と第一印象で思った。六月に真っ黒な上着に真っ黒なパンツ、暑くないのかな?そう疑問に思ったことも覚えている。でも半袖の私の腕にはうっすらと鳥肌が立っていたから、普通なのかな。とにかくにも、体調が悪いんだと思ったんだ、その人が。見ちゃったからには無視するのも後味が悪いだろうと思って、声をかけた。……かけてしまった。
 
―――それが、一年と少し経った今でも、私を縛るとは思わずに。
『あの、大丈夫ですか?』

 恐る恐る、尋ねる。だけど聞こえなかったのか、反応は無くて。もう一度、今度はすぐ側に立ってかがみ、声をかけた。
『あの、どこか痛いとか、気分でも悪いんですか?』
『……いえ、大丈夫です』

 俯いたままだったけど、確かに返事が返ってきて、ホッとした。その声は低く、どうにもモソモソして聞き取りづらい。でも、割と元気そうに聞こえた。だから私は一礼して、その場を去ろうとしたんだ。
 けど、その人は静かに『すみません、』そう声をかけてきた。丁度その人の背後を通り過ぎようとしていたときだったから、慌てて元の場所に戻って『何ですか?』そう尋ねた。

『少し、足が痛くて。手を貸してもらえませんか?起きあがれなくて……』
『あ、そうなんですかっ。どうぞ、』

 切なそうな響きに、慌てて両手を差し出した。困ったときはお互い様。小さい頃からの我が家の家訓が、私は大好きだ。笑いながらゴツゴツしたその手を引くと、とても白かった。私自身肌が白いとはよく言われるけど、その人はもっと白い。というか、青白い。暗い中で微かに光る、その白さに驚いた。 立ち上がってみると、その人はとても背が高くて。百九十を超していそうな、ヒョロリとした体格。顔は、正直あんまり覚えていない。目をばっさり覆う黒髪に、眼鏡。パッと見、三十代前半くらい。普通に街を歩いていたら特に違和感も覚えない、本当に普通の人だったんだ。
 自分の足で立っていることを確認して、帰ろうとした。けど、いつまで経っても、手が離れない。しっかりと握られたままの手に違和感を感じて、苦笑しながら声をかけた。
『あの、すみません。帰りたいので、手を……』
『……お礼を』
『え?』
『お礼を、させてもらえませんか。是非』

 ――その時になって、私はやっと危機感を感じた。
 ちらりと、見せつけるように自分の唇を舐めるその人。ねっとりとした話し方に身震いを、する。徐々に汗ばんで来た掌が、気持ち悪かった。
 ……暗い、道。民家は遠いし、この道を通る人は確かめったにいない。今日はこの天気だ、野球部やサッカー部や陸上部、屋外部活は早めに終わっただろう。バスケ部も、もうほとんど帰ったはず。現実的に今の状況を考えて、改めて背筋が凍った。

 逃げ場が、無い?
 
私の考えに気付いているのかいないのか、その人は薄ら笑いを浮かべたまま。慌てて繋がれたままの手を振り払おうとするけど、男の人の力で捕まれたそれは、外れなくて。
『あ、あの、結構です、お礼なんてっ、私、急いでるので』
『……なに、すぐ済みますよ。こちらへ、どうぞ』
『っいやぁ!!』
 
拒否しようとしても、無理矢理歩かせられる。ガクガク震え膝はまともに動かなくて、男性はそんな私に舌打ちをした。知らず知らず、頬を涙が伝う。
 イヤダ  ヤメテ  怖イ  気持チ悪イ  触ラナイデ
 
だけど喉から絞り出した声は小さく、微かで。乱暴に脇道の壁に押しつけられ、私の上に覆い被さる、黒い影。その時になって、やっと叫ぼうとした私の首筋に当てられる、……ひんやりした鋭い刃の、感触。
『!!』
『……騒ぐんじゃないよ、そんなことしたら一発でお陀仏だ』
『ぃや、やめて、っ!!』
『別にそんなひどいことしようって訳じゃない。……少し、楽しませて欲しいだけなんだ。幸いにも、ここ、全然人通りないしね』

 そのまま、喉で笑い。私のYシャツの第一ボタンが、ぶつり、ナイフで切れる音がした。
 何で。
 どうして。
 無防備に、こんな道を歩いた私も、悪かったかもしれない。だけど、どうして。こんな目に合わなくちゃ、いけないの?怒りと悲しみで震えながら、必死で考える。どうすればいいか、を。
 とにかく、今しかないかもしれない。顔を首筋に埋め、舐める感触は気持ち悪い、けど、我慢した。ナイフは今は下の方だ。今なら――!!
『っ、』
『っ、たっ!!』
 
思い切り、目の前にあった男の二の腕に噛み付く。一瞬怯んだのか、手首を掴んでいた手の力が、緩んだ。
今だ、早く、遠くへ……!!
 振り払って走り出そうとする私の腕を、――折れそうなほど、強く握る、手。余りの痛みに、一瞬息が止まった。
 振り返ると、『なるほど?』底冷えする、怖い、声。鳥肌が立ったのを感じると、男は薄笑いを深くした。そして、同時に。

『ったい!!』
『君は、乱暴な方が好きなようだね。よく分かったよ』
『いや、いや、っ、離してっ、』

 足払いをかけられて、崩れ落ちる身体。押し倒されて、逃げようとする私の背中に男がのし掛かり、同時に。
『抵抗、しない方がいいんじゃない?僕も血を見て興奮する性癖はないし、ね』
 
ぴたぴたと当てつけのように、頬に当てられる冷たい感触。左手は肩の辺りを気持ち悪くなぞっていた。
 ……駄目だった。逃げられ、なかった。むしろ、状況が悪化したかもしれない。
 倒れたときに打ち付けた、頬と膝。上にのし掛かったその身体は見た目以上に重く、容赦なく体重がかけられ、ひりひり痛い。だけど素直に痛いと表現するのが悔しくて、ぎっと睨むようにその顔を見た。
 すると、嬉しそうに顔を綻ばせ、私の顔を覗き込む。

『こんなことになっても、まだ反抗的なの?……可愛いけれど、お仕置き、かな』
 
やれやれ、そんな風に言いながら。
 ―ぱんっ
『あぅっ』
 乾いた、空気が裂ける音。思いっきり叩かれた頬と、地面に一緒に打ち付けた頭が、痛い。ぬるりと口内に広がる、血の味。頭がクラクラして、地面が揺れる。気持ち悪い、どころじゃない。湿度を含みじっとりしたコンクリートが、頬に擦れる。そのまま、第三ボタンの辺りまで露わになった首筋の、鎖骨あたりを強く吸われ、舌先でその辺りを舐められる。その気色悪い感触に、全身の肌が粟立った。
 冗談じゃない。こんな気持ち悪いこと、こんな大切なこと、何でこんな男にされなくちゃいけない。
 嫌だ、嫌だ、誰か助けて、
 ……だけどまた痛い思いをするのは嫌で、黙りこくった私をアイツはひどく満足げに見ていた。そして、まるで裁判官のような、威厳を持って口を開く。私は、そう。有罪判決を受けるしかない囚人のように。

『……ねぇ?君は何を、考えてる?』
『っ、』
『助けが来ると、思ってるの。甘いよ。勝算の無い賭けはね、しない主義なんだ。この時間帯にここを誰かが通るのは、奇跡に近い。特に女子高生が一人で通るなんて、ね』
 
確信を持った口調に、私は否定は出来なかった。そう、助けがくる確率は低い。それこそ、ここを私が一人で歩くことだってあり得ないことだった。そして返事を返せない私にそのまま、何度も囁く。
助けは来ない、
君は一人だ、
 そう、私の脳に刻み込むように、何度も。それに私は、否定したいのに。
 ――徐々に、力が失われる。目の前の光が、少しづつ、消えるように。暗い中で、一人、残されるように。
 それは今思えば、多分一種の催眠効果だった。後の警察の調べで男は昔心理学をかじっていたらしい、と分かったそうだし。
 だけどその時の私に、それに気付く余裕はなかった。絶対的真実のように刷り込まれるそれに、ひたすら涙を零して、そして、……諦めていく。目の前に、広がる暗闇は、あの時の私の意思を揺らがせるのに十分だった。

『いいね、その顔。絶望しかけ、って感じ。……君みたいな若い子にね、何もかも諦めなくちゃいけない時がある、って教え込むのが愉しいんだよ』

 ――目の前が、崩れ落ちていく。
 全て、消えていく。私の立っている場所が、その男の笑いが、何もかも。
 クツクツと笑いながら、いつしか消えていた冷たい刃の感触に気付かず、私は抵抗を忘れていた。首筋をなぞる気持ち悪く荒く、熱っぽい息に、胃の中のものが逆流してくる感覚を自覚しながら、唇から流れる血を放りながら。全身を這う掌に絶えず震えながら、絶望という言葉だけが。脳内を占めること、それがひどく、口惜しかった。


  

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