同じ少女を想う、二人の少年。
その気持ちは、重なるけれど。
鏡はいつも、裏返しの世界。
20.嘘つきな鏡
手の中の旗を、ぐっと握り締める。踊り場の窓の外の夕闇を見つめながら、自分の気持ちがわずかに綻んでいるのを、ふと感じた。
夕方なんて、――あの日以来、好きにはなれなかったのに。
こんなにも穏やかな気持ちで、それを眺めている。
その原因は、自分でも分かっていて、更にそれで笑ってしまう位、ささやかなもの。こんなに、あいつに捕らえられた心も、あの時触れた小さな温もりも。その全てが、くすぐったくも、愛しい。
……らしくねぇな。
まるで恋をする乙女のような思考に、思わず苦笑した。
田中ちゃんは、確か野球部あたりの副顧問をしていたはず。ただ、あの担任のことだ。多分今ごろ職員室でだらけているのだろうと思い、気付けば階段の踊り場で止まっていた歩みを、再び始めた時。
「――山元先輩、」
後ろから掛けられた声に、眉をひそめながら振り返った。階段の途中で立ち止まる予想通りの人物に、小さく嘆息する。
いつもは小柄な身体は、今は上の方にいるため、必然的に見下ろされる。それが、非常に気に食わなかった。
「何だよ、青竹」
気怠げに返事を返しながらも、眉間に刻まれた皺が深くなっているのは、自覚していた。青竹は、俺の態度に苦笑を漏らし、一段分、距離を詰める。まるで焦らすようなその歩みに、ますます苛立った。
別に、こいつが嫌いな訳じゃない。プレイヤーとしてはやりやすいと思う。こっちの意図をよく掴んでくれる、出来た奴だ。性格に関しても、多少の意地の悪さはあるものの、冗談は交わせる仲だし、気もきく。
……ただ、気に食わない。自分が、一番欲しているあの少女に、気にかけられている、その事実が。
柳は知らないかもしれないが、時折、俺と話していても、ふとした瞬間、青竹を見ている。青竹先輩の存在がその背後にあることも分かっている。文化祭のころに色々あったし、青竹は放っておけばどんどん悩んで閉じこもるタイプだ。だが、気に食わないものは、気に食わない。
あの笑顔も、存在も。柳を構成する全てが、自分のものであればいい。
他の誰かを見て微笑んだりすれば、全身に虫酸が走る。
付き合ってもいないのに、そんなこと何度自分に言い聞かせたか分からない。それでも、耐えられない。目の前にいるのに、他の男に手出しをされ、奪われてしまうこと。身勝手だとしても、徹底的に邪魔はしてやる。身体の奥底から込み上げる独占欲は、ただひたすら、青竹を敵視する。
ゆっくり、ゆっくりと、わざとらしく側に寄る、青竹。その表情は、後ろの窓から差し込む光が逆光となって、見えなかった。
三段上まで来て、足を止める。まだ目線は、あいつの方が高い。
青竹は口元に笑みを刻むと、ようやく口を開いた。
「奇遇ですね、こんな時間まで何してたんですか?」
「旗、作ってたんだよ」
「旗?」
不思議そうに言葉を繰り返す青竹に、軽く旗の説明をする。一年生は基本的に参加しない訳だし、知らなくても仕方ない。
だが。俺の話に納得したように頷く青竹に、勝ち誇って笑みを浮かべてみせた。
「……柳と、だ」
――さあ、どう出る?挑発するように、その表情を伺う。
はっきりした、大人気ない牽制だとは自覚していた。それでも、引くつもりは、ない。俺の方が近いと、同級生だというだけの、無意味な権限を振りかざしたいのだ。
ただ、予想に反して。青竹は小さく「そうですか、」とだけ返事をしたことには、意外な気がしたけれど。今までだったら、食い付いて来て、瞳を燃やし、睨んで来たと言うのに。
首を傾げるが、まるで気付かないように、青竹は口を開いた。
「……先輩、体育祭は、何の種目に出るんですか?」
「あ?」
「三つは出ますよね、多分」
「ああ」
いきなり切り替わった話題に、訝しみながら、素直に頷く。
男子全員参加の騎馬戦と、二百×四リレー、クラス対抗リレー。大目玉は最終種目のクラス対抗リレーで、各クラス、一番速い男女一人づつが選ばれる。それプラス、更に男女二人づつ。これは学年による制限は無く、とにかく速い順で選ばれる。三学年なので、計十人。うちのクラスは、三年生四人、二年生三人、一年生三人で構成された。特に一年生の一人はインターハイにも出た男子で、期待してる。一応俺はアンカーを任されているが、正直チーム全体、勝負はその男子で決めるつもりだ、と話した。
その出場種目がどうしたのか、と尋ねると、青竹は小さな顔に意地の悪い微笑みを乗せた。
「賭けを」
「あ?」
「賭けを、しませんか?俺も出るんです。クラス対抗で、アンカーとして」
……賭け?予想もしていなかった言葉に、小さく首を捻る。
何が、賭けだ。青竹は確かに足は速いが、リレーならチーム対抗なので、思うようにはいかないはず。だが、そんなことは気にも留めないように、奴は言った。
「――負けた方が、柳先輩を諦める、って、どうですか?」
思いがけない言葉に、黙り込んでしまう。その間も、逆光に紛れて、青竹は笑うばかり。その笑みの真意はどうにも計れない。
「で、どうします?」
「……どうするって」
意味が、分からない。そんな変な話、どうしろって言うんだ。心の中で、吐き捨てる。
そもそも、何でそんなことをいちいち賭けで決める?お互い一度は玉砕している身だ、それでも諦めきれず引きさがった。それがリレーに負けたくらいで、どうして諦められる。
だから、何の返事も出来なかった。それに、青竹が焦れたらしい。
「先輩、不戦敗でもいいんですか?」
「いいんですか、って。お前、その賭け、どう考えてもおかしいだろ」
「何が、おかしいんですか?山元先輩からすれば、ライバルが消える良いチャンス、ですよね?」
その自嘲的な物言いに、ぐっと息を詰める。
確かに、それは青竹の言う通りだ。勝てば、自分一人が彼女を手に入れるのに努力すればいい。正直、現時点で俺が敵視してるのは青竹一人しかいない。先輩と同じ顔、人懐っこい性格、柳が気にいるには十分すぎる理由。足りない自分の身では、辛いくらいのライバル。面倒な牽制も、この苛々した感情とも、おさらばできる。だけど、それは――。
先程と同様に、黙ってしまう。そんな俺に、青竹は挑発するように大きくため息を吐いた。それに思わず眉が跳ね上がったが、ここで激する訳にはいかない、とも自覚していた。今はこいつの真意を読み説くのが、先だ。そう思ってその瞳を見据えるが、真っ直ぐな瞳は深く、あまりに奥底が見えない。どうにも出来そうにない状況に、視線を床に落とした。
「何が、狙いだ?」
やっとのことで吐き出した言葉は、直球過ぎた。青竹もそう思ったのだろう、「らしくないですね、」と小さく笑う。
だから、瞳に強い光を灯して青竹を見る。あいつは黙って、肩を竦めた。
「山元先輩が、ライバルを蹴落とすチャンスなら、俺にとっても、そうですよ。違いますか?」
その言葉に、反論出来ない。確かに、それは最初に考えたこと、そのままだったから。
だが、それが真意だとは思えない。それにしては、余りにおかしい。今年優勝候補と言われている自分のクラスで、しかもリレーで勝負を挑む、青竹。勝ち目はないのは、分かっているはず。賭けをするならば、自分の有利な分野で対決するべきだ。
だから今回の件はまるで、負けることを望んでいるようで――。
「……じゃあ、賭けは、成立ってことで。いいですか?」
「、は」
「先輩がメリットを求めて、俺もメリットを求めてるんです。別に問題無いですよね?」
「俺は返事、してねぇ」
「沈黙は肯定、です。体育祭、楽しみにしてますよ」
にんまり笑うその顔の背後の夕焼けはとっくに沈み、闇に輪郭が溶けて、交ざる。それに、小さく舌打ちを零した。訳の分からない青竹の態度にも、何だかんだと青竹のことを心配している自分の甘ったれた考えにも。
だが俺のそんな様子は気にも留めず、青竹は俺の横を擦り抜けて。挨拶もそこそこに、足早にその場を去って行った。その後ろ姿を、間抜けにも見送った後、むかつきながら職員室へ足を運ぶ。自分でも、何故苛立っているのか。分からないからまた、治まらなかった。
担任に旗を提出し、教室のドアを乱暴に開ける。眉間に寄る皺はますます深くなり、胸一杯に広がるもやが気色悪い、と思い。
――そこでようやく、柳を待たせていることを思い出した。
教室に入った瞬間、膨れっ面で自分を見つめる、幼い顔立ちの、彼女。途端、胸の中は甘さが去来した。唇を尖らせたまま、柳は拗ねたように、口を開く。
「おーそーいっ」
「悪い、待ったか?」
「待ちました!!二十分は待ちました!!どこで寄り道してきたのよっ」
まるで噛み付かんばかりの勢いで近付いて来て、怒りを露にする、彼女。それを見ていると、どうにも気が抜けて、苦笑しながらもう一度、謝罪をした。素直な俺の態度を訝しげに見つめながらも、柳は何も言わない。その、必要以上に突っ込んで来ないこいつの性格は、俺が好きなところの一つ。かと言って、柳だったらどこまで踏み込まれても、拒絶出来そうにないんだけど。
笑いながら、鞄を片手に、柳を手招きする。
「帰るぞ」
その言葉に、不満げに文句を零しながら、素直に着いてきた。懐かない子猫みたいな態度が、可愛くて笑えば、怒られる。頭を撫でてやりたい衝動を、必死で堪えた。
二人並んで話しながら、胸を占めるのは、さっきのこと。青竹の真意は、全くと言っていい程、読めない。
……だけど、だからと言って。自分のはるか下でコロコロ変わるその表情を、みすみす手放す気も、ないから。自らの中で燃える強い決意に、空に向かって、小さく息を吐き出した。
――体育祭、二週間前の出来事。 |