人は、どこへ行くのだろう。
何を求めて、歩くのだろう。
きっとそれは、些細なもの。
けれど、何より大きなもの。
いつも自分の側にあるもの。

――そして、いつか消え行くもの。


31.ただ一つの想い(1)


 走った。とにかく、走った。その結果。
「っ、あお、っけ、く、っ」
「……先輩、とりあえず深呼吸してください。大丈夫ですから」
 
公園に辿り着いた時には、まともにしゃべれなくなっていた。額に滲んだ汗を、拭う。汗をかくのはどの季節も一緒だけれど、汗がすぐに冷えて寒くなるのは、冬の特徴だ。
 早めに着いたらしい彼は、入り口に立っていて。私が息を整えている間に、近くにあった自販機のあったかいミルクティーを買ってくれた。
「ご、ごめん、ね。ありがとう」
「いえ、呼び出したのは俺ですから。行きますか?」
「うん、」
 
入り口の柵に座っていた彼は、シンプルな黒いコートに身を包んでいた。私が落ち着いてきたのを見届けると、腰を上げて。私を促して、歩き始める。大きく深呼吸しながら、私もその側を歩いた。
 この公園は、歩道が煉瓦造りになっている。少し歩くと、遊具がたくさんある、児童公園に着いて、その後は、桜並木がずーっと続いていく。青竹くんは、迷いなく公園に入っていった。
 普段ならカップルがいるんだけど、今日はすごく冷え込んでいるせいか、誰もいない。静かな夜の公園には、頼りない街灯が点るばかりだった。視線を遠くに向けると、微かに聞こえる気がする、波の音。目を閉じていると、「柳先輩?」怪訝そうな声が届いた。
 慌てて目を開き、視線を彷徨わせる。彼は自分用に買ったらしいブラックコーヒーの缶を片手に、ベンチに座っていた。急いで、その隣に座る。私の様子を見て、彼は苦笑していた。恥ずかしくなって、缶のタブを乱暴に開けて、中身を飲む。まだまだ熱の残るそれに、舌が火傷するかと思った。ひりひりする舌を、口から出して外気に晒し、冷やしていると。
 カタン、と静かな音。視線を向けると、青竹くんが、缶をベンチに置いて。じっと、私を見ていた。
「、」
 
不意打ち。あまりに真っ直ぐな視線に、私は動けなくなる。
 視線を受けて、黙り込む私を尻目に、彼は急激に距離を詰めて。場違いなことに、私はぼんやりと、その唇から漏れる白い息を目で追っていた。
「……先輩」
 
――この人は、誰?
 目の前で、真剣な瞳を向ける男の人が、怖い。
 ――私に、何を求めているの?
 私は、何も持ってない。
この人に、何も与えられない。それが分かっているのに。彼だって、分かっているはずなのに。
 
心臓が、痛い。怖い。怖い怖い怖い怖い。無意識に震える身体は、寒さのせいじゃなくて、逃げようとする身体を、無理に押さえ付ける手の温もりのせい。気が付いた時には掴まっていた手首に、自分が馬鹿だ、と思った。
「先輩は、俺のこと、何だと思ってるんですか?」
「青竹く、」
「誰もいない、夜の公園で。何がされるかも、分からないんですよ?」
 
普通だったら、誘ってると思われます。断定的なその言葉に、叫びたかった。違う、そんなんじゃない、違うの。
 だけど現実には、弱く首を振ることしか出来なくて。ただただ、彼の瞳から、視線を逸らすばかり。
 ……私はどうして、こんなに迂闊なんだろう。何度繰り返しても、学ばない。目を背けることで、自分を守ろうとする。それじゃ、何の意味も存在しないのに。
「――嘘です」
「っ」
 
だけど、突然与えられた温もりは、突然消えた。まるでさっきのこと、全部、無かったことにするように。
 パッと解放された手首に、私は驚く。顔を上げて青竹くんを見ると、悪戯っ子みたいに笑っていて。
 ……そっか、冗談か。心底ホッとして、私は苦笑する。
「青竹くん、心臓に、悪い」
「いやまぁ、先輩があんまり無防備なので。ちょっと忠告しとこうかと」
「うん、反省した」
 
彼の言葉に素直に頷くと、「いいことです」なんて笑われる。
 良かった。いつも通りだ。さっきの態度は、きっと全部嘘なんだろう。そう、自分に言い聞かせる。でなきゃ、どうしようもなかった。まだ、腰が抜けているし、膝にも力が入らない。あれ程度のことで震える自分が、情けない。
 ふぅっと大きく息を吐いて、空を仰ぐ。指先が未だに震えるのを、寒さのせいだと言い訳て。潤んだ瞳の表面を、冬の乾燥した空気で乾かそうとする。
 すると、
青竹くんが、席を立った。その緩慢な仕草を、ぼんやりと見つめる。大きく吐き出された彼の呼吸は、夜空にそっと溶けて、私の目の前でその影は止まる。ぴたり、と私に真っ直ぐ与えられた視線。私は、首を傾げてそれに応えた。
 ……内心では。逃げ出したくて、仕方なかった。でも、未だに身体は動かない。今は堪えることしか出来なくて。息を呑む私に、青竹くんはそっと笑う。優しいはずのそれが、今は、無性に怖くて。
 身じろいだ私に、
「っやだ!!」
 
――その手が、伸びた。
 乱暴に、彼は私を抱き寄せる。逃げようと藻掻くけれど、強い力は私を離すことなく。私の頭は、彼の肩口に埋まった。
 ―カン、カーーーン……
 静かな公園に、やけに大きな金属音が、響く。私の手から離れた缶は、中の液体を零しながら、地面を転がり、しばらくして、音は止まった。
 何も、見えない。真っ黒な、冷たいコートの温度だけ、それしか今の私には分からない。愛おしげに髪を撫でる、手の感触も。耳元に吐き出される、息も。そんなの全部、感じたくない。
 カタカタと、小刻みに震える私を宥めるように、背中を叩かれるけれど、逆効果だ、そんなの。涙が溢れて止まらない。
「やだ、やだよ、っ……」
「柳先輩」
「離してぇっ」

 
欲しいのは、これじゃないの。
 
私が欲しいものは、違うの。
 
私が求める温もりは、たった一つ、だから。

 
無意識に止めていた息を大きく吐き出して、私は、必死に身体を動かそうとした。でも、駄目だ。相変わらず抜けたままの下半身の力は、まだ使い物にならない。馬鹿みたいな自分に、もう、笑いしか零れなかった。
「先輩。好きなんです」
「、」
「……俺じゃ、駄目ですか?」
 
だけど不意に。耳元で囁かれる言葉に、心臓が止まりそうになる。想像しなかった事態に、私は、目が回りそうで。
 どうして。今、そんなことを言うの。
 もしかして、って思った。青竹くんは私のこと、もう好きじゃなくなったのかな、って。何気ない顔して相談に乗ってくれるから、どうしようもなく、そんなことに期待していた。
 でも違う。そんなの全部、私の妄想だった。自分にただ、都合がいいばかりの、妄想。自分が悪いのに、青竹くんをどこかで責めている自分が、馬鹿だと思った。
 答えられない私に、彼は必死で囁き続ける。
「ずっと、ずっとあなただけを見てきた。これからだって、あなたが望むだけ、俺はあなたの側にいます」
「青竹くん……」
「――幸せに、させてください。俺に、柳先輩を」
 
どうしてなの?こんな駄目な人間に、どうしてあなた達は、そんな言葉を吐ける。理解出来ない。こんな人間を手に入れて、幸せになんて、きっとなれないよ。
 私なんかじゃ、駄目だ。絶対に。
「青竹、くん」
「はい」
「私と一緒にいても、……幸せになんて、なれないよ?」
 
漏れそうになる嗚咽を、喉元に押し込んで、私は呟く。いくら言葉を振り絞っても、彼の胸元に吸い込まれてしまいそうで。出来る限りはっきり聞こえるように、私は一音一音、区切って話した。
 だけど私の言葉を聞いて、青竹くんはくっと笑う。
「別に、良いんです。先輩が幸せなら、多分俺は、それで」
「……」
「なんて、詭弁ですけどね」
 
本当は全然、そんなこと思ってない、そう言うと、彼は私を解放した。唐突に離れた温もりにホッとする。
 視界に広がるのは、触れたら冷たそうな遊具と、そして、微笑む彼の姿。夜空一杯に広がる星を閉じこめたような輝きを瞳に秘め、悲しげに笑い。私の前に跪いた彼は、優しく、私の両手を握った。さっきの乱暴さと違い、ただ私を労るように与えられる温もりに、私は息を吐く。望むものとは違うけれど、さっきよりは、まだいいから。
「本当は。ずっと、このままでも良かったんです」
「……え?」
「先輩が逃げようとするなら、俺はそれに、ずっと付き合ってもいいかな、って」
 
唐突に始まったその独白に、私は目を剥く。そんな私をおかしそうに見つめながら、青竹くんは続ける。
「でも、いつまで経ってもこのまま、って、俺には合わないんですよね。分かり切ってる答えから目を逸らして、俺を向くまで待つ程、忍耐力もなくて。先輩はきっと、認めようとしなくても、時間がかかっちゃうだろうから」
 
ねぇ、先輩。
 あくまで優しい瞳は、容赦なく私に切り込み。そして、突き付ける。

「もう、逃げるのは止めましょう」

 ――この穏やかな時間の、終焉を。


  

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