The wizard And Glafs flippers(3)


 結果として。俺が、柳先輩を諦めることはなかった。
 最低なことはしたし、俺にはそんな資格はない、何度もそう言い聞かせた。
 それでも、好きでたまらないのだ。側にあの微笑みがあれば、どうしようもなく、焦がれてしまうのだから。
 柳先輩が、こんな最低な俺の言葉にすら泣いてくれるような、優しい人だから。
 俺の言葉を「関係ない」と突っぱねるくせに、肝心なところで馬鹿みたいに正直になってしまうような、素直な人だから。
 離れることなんて不可能なんだと、分かってしまった。甘い甘い、毒みたい。気付けば全身蝕まれて、あなたしか見えない。

 ――ただし、俺には最強のライバルがいた。
 柳先輩に信頼され、甘えられ、とにかくも柳先輩のさまざまな『一番』をかっさらってる、山元先輩。クラスメイトだから近くでガードはばっちり張ってるし、何かにつけ俺を挑発する。……気に食わない人。
 だけど山元先輩のガードには、二重の意味があったのに気付いたのは、文化祭の時のこと。

 ――俺の失恋が、確定したのも。

* * *

 九月、文化祭。緊張しながら送った、柳先輩へのデートのお誘いメール。返信がなかったものの、運よく先輩に会え、その上デートも許可された。柳先輩が山元先輩を避けていることはなんとなく分かっていたし、これを機にガンガン攻めてやろうと決意していた。そんな俺の、邪な考えに罰が当たったのかもしれない。
 兄貴に出会って。先輩は、顔色を変えた。
 それは、とてもじゃないけど好きな人に出会えて嬉しいって顔じゃあなかった。怯えて、泣きだしそうで、下手したら壊れてしまいそうな表情。
 そして、俺の手から滑り落ちてしまった先輩は、何処かへ消えてしまった。悔しいが、俺よりも柳先輩の行動パターンを把握しているだろう山元先輩に助けを求めても、見つからず。探し回った結果、教室の片隅で震えていた、小さなあの人。
 俺に救いを与えたあの夏の日の彼女は、どこにもいない。何かに怯えて、この世の全てが絶望だと、全身で語っていた。
 そんな彼女に、俺がしたことと言えば。――自分の気持ちをただひたすらに押し付けただけだった。
 彼女が震えていることに気がついていたのに、その瞳が潤んでいることも知っていたのに。一刻も早く。その頭から兄貴を消してしまいたくて、俺を植え付けたくて、仕方なかった。
 その結果、彼女は俺の心をざっくり切る代わりに自分をも切り刻み、ますます壊れてゆく。泣いている彼女を見て、俺も泣きたかった。
 山元先輩がやって来て、先輩が柳先輩を噛まれても抱き締め、優しく「大丈夫」と言い聞かせる。後ろから見ていれば、すぐに分かった。柳先輩の瞳が、徐々に感情と言う色を、取り戻していること。そしてその後、避けていたはずの山元先輩の胸に倒れ込んだ、その意味。
 ――柳先輩が安心出来る場所は、山元先輩の元である、という事実。その身を預けられるのは。甘えられるのは。
 先輩が、本当に呼んでいたのはきっと、兄貴じゃない。確かに兄貴の名前を口にした。けれど、先輩の中での一番はもう、変わっている。それは保健室で見せた、山元先輩を見る瞳が明白に示していた。山元先輩が触れると、はにかむような、幸せそうな笑顔。山元先輩が出て行く時の、寂しそうな視線。
 誰が見たって分かってしまう。彼女の、想う人の名が。――俺では、ない名が。
 どうして俺は、柳先輩を抱き締められないんだろう。どうして俺に、彼女のあの瞳が、向けられないんだろう。あの瞳に見てもらえるなら、今ならみっともなく、兄貴のふりでもしてしまうかもしれない。でもきっと、先輩はもう、兄貴じゃあの瞳はくれない。俺が気付かない内に、柳先輩の心は、進む方向を決めていた。

「……そりゃ、そうか」
 保健室を出て、小さく呟く。月明かりに照らされ、自分の肌は青白く光った。
 そりゃ、そうに決まっている。俺は、何も与えられなかった。彼女からもらうばかり、望むばかりで、俺自身が何かしようなんて、考えなかった。
 図書室で俺は、山元先輩を心のままに責め立てた。俺の方が幸せに出来る、大事に出来ると叫んだ。……だけど、実際に俺がしたことと言えば?彼女に甘え縋り、勝手に神聖化して。俺は、自分の何処が山元先輩に勝てると思ったのだろう。確かにあの時、頭に血が昇っていた。だけど、それにしたって。
「……っ」
 口から漏れる、苦しげな吐息。苛立つ気持ちのまま、思い切り、壁に拳を叩き付ける。痛いけれど、きっと。柳先輩が感じた痛みは、こんなものじゃなかった。
 叫び出したくて。だけど、そんなことをして、この現実を認めてしまいたくなくて。
 ふらふらと、暗い夜道を歩いて帰った。

* * *

「旗、作ってたんだよ。……柳と、だ」
 夕焼けの中、いつ見ても綺麗なその顔は明るく照らされる。その瞳に浮かぶ挑発の色に、無駄なのにな、と思わず苦笑した。

 文化祭が終わり、柳先輩に対して募る気持ちを、どうにかしてコントロールしようとする不安定な日々。一度は、もう一度頑張ろうと決めた。文化祭の日、先輩の心は決まったようだったのに、二人の関係は変わらなかったから。そして先輩は、無邪気に俺の心を引きとめる。彼女を傷付ける俺には想う資格すら与えられないのに、柳先輩は、俺を優しく許す。その気も無いくせに、と八つ当たりたくなることはあった。そんな彼女だから好きで、憎くてたまらなくて。
 ――だけどやっぱり、分かってしまうから。
 痛いくらい。山元先輩と柳先輩が、無意識にお互いの姿を探して、視線を彷徨わせてしまうのが、俺にははっきり見えてしまうから。

 体育祭直前。柳先輩を諦めようとして、そのきっかけが欲しくて、山元先輩に賭けを吹っ掛けたのは俺。好戦的な山元先輩には持って来いのチャンスなはずなのに。

「何が、狙いだ?」
 どうして、
 あなたは、
 そうやって。
 俺のことなんて、無視してくれれば。いなくなればせいせいだと、笑ってくれればいいのに。
 山元先輩は今年バスケ部の部長になり、エースの名を欲しいままにする。けれどこの人は、決してその立場に甘んじることはなく、努力し、バスケと言うものを楽しんでいる。嫉妬しているはずの俺ですら、気付けば引きずられてしまうような、そんな引力を持っている。
 それだけじゃない。俺が、兄貴と同じプレイを、他の先輩に強要された時だって。
「こいつに、青竹先輩は無理っすよ。プレイスタイル違うんだし、今のがベストでしょう」
 なんて、自信満々で笑ってみせる。俺を甘く見てるかのような発言は、よくよく考えれば俺を庇っているのか、俺の実力を買ってくれているのか。どちらにせよ、今まで誰もくれなかったような言葉を、簡単に零す。
 山元先輩はライバルで、嫌いな人なはずなのに。――何処かで、俺にすら優しさを見せつけるようなこの人をどうやっても嫌いになれない。
 俺とは器が違う。兄貴と言う壁を設定し、うじうじ悩む俺なんかより、ずっとずっと先にいる。だから柳先輩も、山元先輩の隣を、選んだのに。
 だから、もういいんだ。
 賭けに負けてしまったら、きっぱりと柳先輩の側を、諦めてみせよう。
 これ以上固執しても、苦しいだけだから。
 
 体育祭当日。優勝確実と言われた山元先輩属するC組は、途中でバトンパスをミスして、四位に転落した。計画が完全に狂い呆然とする俺を余所に、山元先輩は静かに目を伏せる。余裕すら感じるその態度が、悔しい。逆に俺が焦りを感じてしまい、唇を噛み締める。
 自分の番が来て、ゆっくりラインに立つ、俺の背中に。大きな風が、動いて。
「……俺を、理由にするんじゃねぇぞ」
 ――静かなその声に、息を呑む。慌てて振り返っても、山元先輩は飄々とした態度で、前を見据えて。
 軽く走りながら、手に叩き付けられるバトンの感触に、身体が疼いた。
 遠く見えるのは、必死な顔の、柳先輩。

 好きで、仕方ないのだ。
 その瞳も、表情も。
 一瞬たりとも、目を離せないくらい。

 だけど、先輩が追う視線の先を知ってしまったのに、俺はどうしたってこれ以上、――頑張れない。身体がずんと重くなり、地面を踏み出す足が、土の中に沈むみたいに重い。叫びたい位苦しくて。

 負けていいと思ったのに。
 そのための、賭けだったのに。
 ならば、どうして。

 俺は、走る?

 背後の、誰のものか分からない荒い息が耳に届く。だけど俺は、何故かそれを山元先輩のものだと認識した。そう思った瞬間。
 自分でも、分からない。足が力を取り戻し、加速する。
 その時は、何も考えられなくて。ただただ柳先輩の笑顔が、頭の中で点滅して。
 ――負けたくない。
 自分の中に残った感情は、それだけだった。

 一瞬、速さを取り戻した足は、すぐに減速する。一瞬にして遠くなる背中に、手を伸ばして。気付いた時には。

『一位は、C組!!四位から、まさかの逆転優勝です……!!』

 アナウンスが、校庭中に響く。
 倒れ込み、泥にまみれる身体に、その言葉は冷たく染みた。
 ああ、ちくしょう、負けた。分かってたのに、覚悟してたのに、むしろ期待すら、していたのに。なのに俺は、泣きたくて、たまらなくて。……そしてどこかで、ほっともして。山元先輩が、賭けの結果を素直に喜んでくれればいいと思った。それで、良かった。なのに。
「俺はな。あいつを賭ける気は、例えどんなメリットがあったってありゃしねぇんだ」
 だからどうして、あなたは、いつも。
 わめく俺に、先輩は真剣な色を、瞳に帯びた。そして、俺の胸倉を掴み。
「惚れた女諦める理由を、他人に求めたり、絶対しねぇし」
「っ」
「つーかな。最後の最後、譲れないくらい好きなら、嘘でもあんな台詞、言うんじゃねぇよ」
 ――気付いていたのか。
 賭けに負けたなら仕方ないと、自分をそう納得させようとした俺の卑怯さを。けれどそれを、見ないふりをしようとしていたのか。
 言葉を失う俺の胸倉を離し、先輩は視線を背ける。俺の方を見ようとしない。それなのに、この人は俺を分かっている。理解してくれる。自分が山元先輩に甘えていたことを理解して、苦笑してしまった。
「……あーもー本当、山元先輩最低です」
 本当に。自分の中のちっぽけな嫉妬心すら消えてしまそうなくらい、俺を軽々と飛び越えて行くものだ。
 相も変わらず、俺は臆病で、汚い人間で。諦めると何度も口にしながら、自分を納得させようと頑張りながら、結局柳先輩が好きで仕方なくて。
 なのに、諦めようとした。努力することも忘れて。自分の欠点を直そうともせず、ただ、自分の欠点から目を逸らすことで自分を満足させようとして。
 俯き、謝まる俺にあっさりと背中を向ける。その大きな背中がどうしても越えられない理由が、身に染みいりながら。
「山元先輩」
 呼び掛けると、怪訝そうな返事。泥だらけの自分の体操服を見つめ、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「先輩は。絶対に欲しいものがあったとして、絶対に手に入らなかったら、どうしますか?」
 ……俺は、どんな答えを先輩に求めているのだろう。分からないけれど、じっと答えを待つ。すると、小さな笑い声が耳に届いた。
「努力する」
「へ、」
「百二十%やりきって、絶対駄目だって百回分かるようになるまで、手に入れようとする。そこまで出来なきゃ、『絶対』欲しいもんは手に入んねぇだろ?」
 ――ああ、そうだ。
 俺に足りなかったのは、こんな熱い想い。
 柳先輩が、バスケが好きだと言いながら、大きな壁が現れると、逃げる道を模索する。そんな半端な気持ちでいるから、何にも手に入らない。『試練』に立ち向かうことも出来ず、へっぴり腰で、相手の粗探しをして。いつもいつも、自分の持ってる力で、全身全霊で立ち向かおうとはしなかった。
 だからきっと、兄貴や山元先輩は、眩しいのだ。
 強敵が現れれば、自分の力を最大限に高めて立ち向かおうとする。それは才能ではなく、自分の努力の上に成り立つ自信。
「……ホント、俺は……」
 駄目な奴。
 自分をそう卑下することは簡単だ、と、気付いてしまった。駄目ならばそんな自分を変えようと努力すればいいのだ。自分なりの理想を極めれば、そんな自分が他人にどうこう言われようと認められるはずだったのに。
 ――完敗だな。
 小さく呟き、手の中の土を握りこむ。それは、砂利が混じり、痛かった。それでも今の俺に必要なのはその痛みだ。その、記憶だ。
 山元先輩に、きっと俺は勝てない。だけど、勝つ必要すらなかった。俺が勝つべきだったのは、自分だった。卑屈で、全てを他人になすりつけてしまう、弱い自分だった。初めて心から好きで、自分が頑張ろうと思えた女性のことすら他人任せにしてしまう、駄目な自分だった。
 それすら、ライバルに気付かせてもらうんだから。本当に、完敗だ。

夕焼けの中、噛み締める唇、血の味。
堪え切れない笑いが、俺の頬を緩める。
胃の中の重い想いを吐き出すように、俺は深呼吸した。



  

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