自分が、変わっていく。

それは不愉快なことなのに。

あんたが側にいると、何故か、心地よく感じてしまうから。


Eye for eye 5


 十一月の空は、すぐに暗くなる。学校を出て空を見上げると、もう真っ暗だった。やや早足になりながら、ズボンのポケットからケータイを取り出す。そこには、一件の新着メールが入っていて。無意識に目を細めながら、内容を表示する。いつも通り、女子高生にしては素っ気ない文章だった。
『今日、9時には帰るので一緒の電車にしない?返事待ってます』
 余計なお世話だ、と内心で吐き捨てる。
 メールの相手――天崎先輩は、夏まで一緒に部活をやっていたマネージャーだ。受験で忙しい先輩と、部活に追われてる俺らの関係は、自然と薄れるはずだったのに。俺の調子が悪いとか、幼馴染みの田中が勝手に吹き込んだらしく。ある日、なんとなく授業をさぼって屋上にいたら、あの人がやって来た。それ以来、時々メールが来たり、今日みたいに一緒に帰らないか、と言われる。
 ……別に、そんなお節介、いらない。あんたにはやることがあるだろ、と口にすることは何度だってあった。
 でも、天崎先輩は。いつだって、ただ笑っている。
「私は、京くんといるの、気に入ってるから」
 ……
そう言われれば、わざわざ反論するのも、馬鹿らしくて。
 あの人が、特別嫌いな訳でもない。最初の頃は俺もガキだったから、側にいなかったけど。あの人の、押し付けすぎない態度というのは、――そう、嫌でもないから。
 
俺は、ただ。かじかむ指先で、駅の到着時間をメールした。

 バスに乗って十五分もすると、最寄り駅に到着する。定期券を通し、ゆっくりと歩道に降り立った。ちらりと駅前の予備校に視線を向ける。丁度授業が終わったのか、ぞろぞろと制服姿の奴らが入り口から出て来た。うちの学校から近いからか、見覚えのある顔もいくつかある。
 その中に、――いた。最後の方の列に混ざって、少し茶色がかった、長い髪。雨の日によく爆発していたくせっ毛は、遠目でも見つけやすかった。
 ぼーっとその顔を見つめて、足を止める。こっちから声をかけるのは、気にくわない。まるで自分が待ちかまえていた、と思われそうで。かと言って、ここからわざわざ待ち合わせ場所に行って合流するのも馬鹿みたいだし。
 さて、どうするか。そう思って、ロータリーのガードレールに腰掛けると、視線が、重なった。驚いたように、目を瞬かせる、天崎先輩。その後すぐに、ぱっと顔を満面の笑顔に変えた。特に顔が子供じみてる訳でもないのに、自分よりずっと年下にあの人が見えるのは、こんな瞬間。呆れながら手を挙げると、横にいた、――他校の男に手を振ってこっちに走って来た。
「京くんっ」
 頬を真っ赤に染め、いつも通り、ゆるい顔して笑う。いつもは何とも思わないのに、今日はそれに苛ついた。そっと視線を外し、さっき先輩の隣にいた男の背中を、目で追う。首を傾げる先輩に、口を開いた。
「いいんすか」
「ん?」
「あいつ、ほっといて。一緒に帰らないんですか」
「武田くん、のこと?」
 
目の前の人の口から零れる、知らない奴の名前に。無性に、イライラする。だけどそういう自分が、分からなくて。混乱するまま、先輩の目を睨む。
「人生初の彼氏作る、良い機会じゃないんですか」
 
思ったよりも低く響いた自分の声に、目を見開いた。
 何言ってんだ、俺。これじゃ、お気に入りのオモチャ取られて駄々こねてるガキか、っつの。
 ――ガキくせぇ。我ながらそう思って、深々と大きいため息が、口から零れた。
 先輩の真っ直ぐな視線を避けるように、俯く。だけど、不意に伸びた、細い指先が。俺の頬を、そっと上向かせるから。突然の、その冷たい温もりに。情けないことに、何の反応も出来なくて。視線も、逸らせなかった。俺を射抜くような、その強さが。俺を、捕らえるから。
「私は。京くんと、一緒に帰りたいんだよ?」
「……っ」
 
何で。怒んない訳。普段、からかったらちょっとしたことで頬膨らませるくせに。こういう時ばっか大人びて、俺の嫌味を受け流すから。
 だから俺は、また同じ態度を繰り返してしまう。

 悔しくて。
 俺はガキだって、思い知らされてるようで。
 嫌なのに。
 天崎先輩の隣にいると、いつだってこんな、馬鹿みたいな思いばっかするのに。
 なのに、俺は。

 
一瞬だけ触れた冷たさは、すぐに離されて。先輩は、気付けばいつも通り、にこりと笑っていた。
「ていうか、武田くん彼女いるもん。私の、クラスの友達なの。いっつも惚気聞かされるんだよ」
「……」
「今日もね、授業中なのに……」
 手を叩きながら下らない話を始める、先輩。俺はそれを尻目に見ながら、ゆっくりと立ち上がり、その横に並んだ。そうすると、俺よりずっと小さくて、今にも壊せそうな身体。
 ――壊して、しまえばいい。何度も、俺の中でそんな言葉が囁かれた。
 先輩といるのは、嫌いじゃない。でも、たまにものすごく、苦しい。自分が自分じゃなくなっていく。俺の全てが、塗り替えられていくような。それが嫌で、だけど俺は、先輩を拒否できなくて。
 嫌なのに、嫌じゃないんだ。自分を全て明け渡してもいいと、思う時すらある。この人の、馬鹿みたいな話をただ聞き流すこの瞬間が。嫌いに、なりきれないから。だったら、俺を壊される替わりに。この人を壊してしまいたいと、思ったりもする。
 でも。
「ちょっと、京くん。話聞いてる?」
「いえ、全く」
「もー!いっつもそればっかり!」
 
頬を膨らませ、俺を睨み付ける。その見慣れた表情に、ホッとする。
 そのまま俯いてブツブツ文句を言う、先輩のつむじを。ぐりぐりと撫で回してやりたいような気持ちに、襲われた。ガキには、ガキに対する対処が一番。だから、触れたいなんてそんな気持ち、どこにも無い。そんなことを思ってその頭を見下ろしていると、不意に顔を上げる、先輩。思わずぎくりとして、伸びかけた手をポケットに突っ込んだ。街灯に照らされ揺れる瞳が、また、俺の苦手な強い色を浮かべて。俺はまた、動きを縛られてしまう。
「京くん、最近大丈夫?ぼーっとしてない?」
「別に、普通ですよ」
「……そっか」
 例えば、今ここで。そこら辺の路地に連れ込んで、キスでもしてやったらどうなるんだろう、なんて。する気もない癖に、馬鹿なことを考える。
 
分かってる。
 俺には、この人を壊せない。
 この人の瞳がこうやって俺を、戒める度に。
 俺は、馬鹿な自分を嫌いになっていく。
 なのに、俺は。

「つーか俺より、先輩のが大丈夫なんですか。受験生でしょう」
「大丈夫!毎日ご飯一杯食べてちゃんと寝てるもの」
「ま、馬鹿は風邪引きませんけど」
「何!?」
「別に」

 
――この人が、こうやって笑って側にいる限り。
 先輩の笑顔は、俺を許して、馬鹿みたいに溢れる位の優しさを与えるから。
 俺は、嫌いなはずの馬鹿な自分を許してしまう。

 今日も、天崎先輩はうるさくて、鬱陶しい。分かりきったその事実に、口元が緩んだ。

 甘えきってる。認めたくないけど、自分でもそれが分かってる。底なしの沼に溺れるように、俺はどんどん、あんたに嵌ってく。その眩しいまでの優しさは、時として俺の首を絞めるのに。痛みすら覚悟しても、触れたくなってしまう。
 
――頼むから。どうか、これからも俺の側にいてほしい、なんて。
 柄にもないことを思ってしまう時が、ある。
 あんたが側にいれば、何とか俺は、自分を戒め、自分を許すことが、出来るから。
 あんたがいなきゃ、俺は自分の中のバランスを、見誤ってしまうから。

「……つーか、ここまでしといて逃げたらフルボッコだっつの」
 ぼそりと漏れた独り言を、我ながら何だかなぁ、と思いつつ。いつものサボり場所の屋上から覗ける、教室。その一角で、真面目に板書を取ってるあの人の横顔を、俺はぼんやり眺めてた。


  

inserted by FC2 system