世界が終わったっていいと、本気で思った。

消えゆくなら、この身を消して、と。

哀しみに縋る日々ならば、いらないから。


空の果ての歌 3


 あれは、春休みに入ってすぐのことだった。いつも通り、朝練に行こうと思って自転車を駐輪場に止めに行って、3年の先輩と合流した。2人で騒ぎながら部室に行って、先に着いてた部員や、後から来た部員と話しながら練習着に着替えて。着替え終わって外に出たら、同学年のマネージャーが、部員と深刻そうに話をしていた。どうしたのかと尋ねると、ひとみ先輩がまだ来ていないのだ、と返された。
 確かに、普段部活では一番乗りの先輩が来ていないなんて、まずあり得ない。けれど重くなる空気を悪化させるのもどうかと思い、緊張で強張ってしまった顔を緩めた。
「ひとみ先輩のことだから、迷子にでもなったんじゃねえの?心配しなくても、すぐに――」
「おい!!やべぇよ!!大ニュース!!」
 
冗談を言おうとしたら、後ろから切羽詰まった大声が響いた。驚いて振り返ると、ひとみ先輩と同じ方向から来ている友人が汗だくで叫んでいた。嫌な胸騒ぎと妙な焦りを感じて、続きを尋ねようとして、一切の思考が固まった。


「ひとみ先輩、事故にあった!!車に跳ね飛ばされたんだよ!!」


 ……その後、自分がどうしたのか、正直あの日のことは、ほとんど覚えていない。ただただ呆然として、マネージャーが半泣きになり、他の部員が騒いでる中、俺は立ってるだけだった。

 そいつが言うには、朝いつも通り大通りを歩いていたら、救急車が止まっていたらしい。何か事故かと思って覗き込んだら、制服に血をつけたひとみ先輩が担架で運ばれていった。思わず周りの人に事情を尋ねると、20分ほど前に交差点に車が突っ込んできて、彼女が犠牲になった、と。

 もちろん朝練は中止になり、顧問が病院に連絡を取って、部員は教室に返された。その日の授業なんて、もちろん上の空で、ノートは見事に真っ白だった。まるで全部嘘のようにすら感じて、一抹の期待を胸に部活に行ったら、当然ひとみ先輩はいなかった。
 ――胸を占めたのは、感じたことの無いような不安と吐き気。
 先輩が、死ぬのかもしれない?
 あの笑顔が、あの声が、あの存在が、もうこの世から消えてしまうのかもしれない?
 俺にとって世界の全てにも等しい女(ひと)が、儚く散ってしまうのかも、しれないなんて。
 想像するだけで目の前が真っ暗になって、ひとみ先輩がいない世界を見るくらいなら、死んだっていいと思った。世界の全てがひとみ先輩なら、ひとみ先輩がいなくなった瞬間、世界も一緒に砕けてみんな消えればいいと。みんなが顧問の連絡を待ってそわそわする中、俺は1人虚ろにそんなことばかり考えていた。

 練習はいつもより30分ほど早く終わり、顧問から連絡がされた。
「あー葉村だが、みんなも知っての通り、今朝事故にあって、病院に搬送された。状態に関しては、腹からの出血は迅速な処置のおかげで助かったらしい。頭は打ち付けたせいで出血もあったが、2時頃には意識も回復。頬に擦り傷が残っただけで、他には目立った外傷もなく、とりあえずは無事にすんだらしい。……が」
 
みんなひとまず、ホッと息を吐き出していた。だけど、俺は全然安心できなかった。最後に言うことが、とてつもなく悪いことのような気がしたからだ。瞬きもせず顧問の顔を見つめていると、先生は、重々しく言葉をはき出した。
「――事故のショックからか……声が出ないらしい。よって、治るまで病院に入院するそうだ。……正直、いつ出られるか分からん」
 
どよめきが、さざ波のように広がった。最後に先生は、「本人が言うには大したことは無いから部活に専念しろ、ということだ」そう締めくくった。去っていきそうな背中を追いかけて、必死に病院名を尋ねた。
 どうしても、一目その顔を見たかった。他人の言葉だけじゃ、安心なんて出来ない。
 先輩本人に、笑って欲しかった。

 部活帰りにどこか寄ろう、という友人の誘いを振り切って、俺は病院まで駆けだした。

 受付で病室を聞くと、妙に怯えた顔で返答された。……きっと鬼気迫る顔をしていたんだろう。走って走って、ノックもそこそこに病室に入ると。
 髪を下ろして、入院着を着た先輩が、ぼんやりと空を見ていた。
「先輩っ」
 
声をかけると、ハッと驚いたように先輩が振り返る。その目の周りは、真っ赤で、充血していた。それでも俺の姿を見ると、ぎこちなく微笑んだ。
 ――自分が心底情けなくて、恥ずかしくなった。
 無事な訳、ないだろう。事故にあって、怖い思いして、声を失くして、それでも笑ってられるなんて。一番辛いのは、ひとみ先輩なのに。そんなのも分からないで、笑って欲しいなんて。どうしようもなく身勝手な願いを、叫んでいただけだった。頭に巻かれた真っ白な包帯や、小さな顔に不釣り合いな程大きなガーゼが目に染みて痛々しい。すぐ側に置いてあるスケッチブックとサインペンを持つ手は、哀れな程か細く震えていた。
『ごめんね、心配かけちゃって。部活、朝練なくなっちゃったんでしょう?駄目だな、もうすぐ最後の大会なのに』
「……そんなの、先輩のせいじゃ、無いですよ」
 
こんな時にまで、人の心配なんてしなくてもいいのに。無性に泣きたい気分になった。俺の言葉に、先輩は無言でペンを走らせる。
『部長にも、申し訳ないな。呆れられちゃったかもしれないね』
 
今にも壊れそうな、崩れそうな微笑みで笑う彼女を、ただ黙って見ていることは出来なくて。
 気がつけば、叫んでいた。

「っ、そんなことありません!!部長はひとみ先輩のこと好きなんですからっ!!」

 言ってから、ハッとした。……俺は今、何て言った?
 泣きそうだったひとみ先輩も、呆気にとられたように目を丸くしている。でも、ここまで来たら最後まで言わなくちゃいけない気がする。もしも、ここで言うのを止めてしまったら、先輩は本当にそのまま崩れてしまいそうだったから。
「ほ、ホントですよ?知らせ聞いて慌てて半分泣きそうになっていて、ずっと先輩の名前呼んでました」
 
全部、嘘だ。確かに驚いては居たけれど、部長はあくまで冷静に部員に指示を出していた。もちろん2人は友人関係ではあったから、ショックもあっただろうけれど、俺が言った風では全然無かった。
 だけどひとみ先輩はみるみる顔を赤く染めて、いつものように、心底幸せそうに笑ってくれた。それを見ていたら、何故か自分が泣きたくなって、挨拶を告げて早々に立ち去った。先輩は嬉しそうに俺を見送ってくれて、俺は先輩の顔を見れなくて。
 帰り道、1人で泣いてしまった。
 自分の身勝手さに。自分の馬鹿馬鹿しさに。――自分のついた、愚かな嘘に。




どうせいつかばれてしまうのに。ばれた時、俺はきっとひどく彼女に責められて、嫌われてしまうのに。
なのに、口を止めることは出来なかったのだ。
先輩の今の幸せが、俺のついた嘘であるなら、それでもいいと思ってしまって。
結局、俺はずっと、ずっと。先輩に嘘をつき続けたのだ。
あの日まで。


  

inserted by FC2 system