俺にとって、ひとみ先輩は何者にも変えられない、大切な、大切な女(ひと)で。
だから彼女の笑顔が他の誰のためのものだったとしても、その幸せが続くのならば。
俺自身が例え心の中でどんなに傷を負ったとしても、きっと笑顔で居られると信じていた。

――そう、あの笑顔がずっと咲き誇るならば。


空の果ての歌 4


「は、ぁ?」
「いやだからマジなんだって!!だって何か今日妙に浮かれてると思わねぇ?」
「……別に、普段と変わらないと思うけど」
 
ひとみ先輩の姿を部活で見なくなって二週間ほどしたある日、友人の吉田から信じられない知らせを聞いた。考えたこともない、突拍子も無い話に言葉を失ってしまう。

「つか、普通にあり得ないだろ。――柳原部長に、彼女とか」

 放課後、ジャージに着替えてアップを始めた俺に長距離の吉田が笑いながら近づいてきた。
 ――部長に、彼女が出来たらしい、と。
 高3だし、別におかしい話でもない。ただ部長は陸上一本の人で、部活の時はファンが声を上げても完全にシカト。終わればみんなと一緒に爆笑したり話し込んだりもするが、女子の話になるといつもどこかに消えてしまう。廊下で見かけても、女子と話してる姿は見かけたことがない。そんな部長に彼女だなんて、嘘くさくて仕様がない。それに、それが本当であれば……。
「……っ」
 
――瞼の裏に、あの日のひとみ先輩の幸せそうな微笑みが、浮かんで。思わず言葉を無くした。
 そんな俺の様子には気付かないように吉田は言葉を続ける。
「いや、俺も信じられないんだけどさ。何でも教室で一緒にご飯食べてたんだって」
「それ位なら友達でもあるだろ?」
「でも昨日は一緒に帰ってるとこ見た奴いるらしいよ?他の先輩ならともかく部長は彼女以外とはそんなんしないだろ。それに、すんげー優しい顔で笑ってたって」
「どうせ噂だろ、放っとけ」
 
思わずムキになって言い返すと、吉田は不快そうに眉を顰めた。唇をとがらせて、爪先で土を掘り返す。俺は柔軟を終えて、体を伸ばして靴紐を結び直した。するとその矢先に、まだいた友人が俺の肩をつつく。顔を上げると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて、横を指さした。そこにはこっちに向かって歩いてくる部長の姿。
「じゃあさ、本人に聞こうぜ?」
「はぁ?止めとけよ、どうせただのデマだって」
「だったらそれもちゃんと言っといた方がいいだろ?別に俺らに何かダメージある訳でもないしさ」
 
そうだ。別に俺が傷付く必然は、無い。
 だけど、俺にとって一番大切な女が傷付くなら。それは俺自身に刻まれる傷より、ずっと深いから。……今の俺は、ひどい嘘で彼女を知らずと傷付けているけれど。

 
グルグルと考え込んで俯いていると、部長はもう傍まで来ていたようで、「こんちはー部長!!」と、友人の脳天気な声が聞こえて、思わず肩をビクリと揺らした。
「おう。ったく、吉田は始まる前はいつも無駄に元気だな。練習中もそれで通せよ?」
 
その声は、確かに普段より幾分穏やかで優しいものだった。のろのろと顔を上げて、「こんにちは」と声をかけると笑って「おう」と言われる。部長は基本的に、部活内でも部活外でも優しく、穏やかな人で、私情を部活に挟まない。機嫌が悪くとも、機嫌が良くとも、それを部活内に持ち込むことは絶対に無い。だから、今日の部長はどこかおかしい。明らかに、機嫌が良く、どこか浮かれていて、言葉尻が優しい。
「山口は元気ないな。どうしたんだ?大丈夫か?」
「……ええ、大丈夫です」
 
微妙にひきつった笑顔を向ける。それに心配したのか、部長が口を開こうとしたのにかぶせて、吉田が部長に声をかけた。
「ねぇ、知ってます?部長。今ちょっと面白い噂が出てるんですよ」
「噂?」
 
ニコニコと調子よく言う吉田に、部長は怪訝そうに尋ねる。

 止めろ。それ以上は、

「ええ。部長が、同学年の女子と付き合いだした、とか?」
 
挑発するように、小柄な吉田は身長の高い部長を見上げて笑った。それに対する部長は一瞬息をつまらせて、目を大きく見開いた。

 どうか、それだけは、口にしないで。

「本当なんですか?」

 ――あの笑顔を、壊さないために。

「……耳が早いな、吉田」
 
静かに苦笑する部長に、何故だか彼女の泣き顔がフラッシュバックして。
 何かの終わりを、漠然と感じた。
「えー!?マジっすか!?え、可愛いんですか!?ていうかどっちから!?いつから!?」
「煩いっつの。ほら、もう部活始まるぞ」
「いいじゃないっすかーっ。ね、ね、ちょっとだけ!!お願いしますって!!」
「後で気が向いたら話してやるから」
「部長がそう言ったら絶対逃げるって長距離の先輩みんな言ってましたー!!気になって今日の部活出来ませんって。いつからかってことと、どっちからかってことだけ。お願いします!!」
 
手をパシン!!と叩いて腰を折り曲げてお願いする吉田に、困ったように部長は笑った。どうやら野次馬根性むき出しになったこいつに一回食いつかれたら逃げられない、と悟ったらしい。渋々ため息をついて、ハッキリと口にした。
「……俺から。高1ん時から、ずっと好きだったんだよ」
 
困ったような、慈しむような、そんな甘い笑顔だったから。
 俺がひとみ先輩を、ひとみ先輩が部長を想うように、部長はその人を心底好きなんだと思い知らされた。




ああ、ごめん、ひとみ先輩。
俺は何て中途半端で無神経な言葉を。
全てを知ったとき、この笑顔を見てしまったとき、ひとみ先輩は風に飛ぶ砂のように。
ただ、崩れてしまうのだろうかと、僅かにぼやけた視界の中で、俺が壊してしまった彼女を、彼女の幸せを懲りずに願う俺が居た。
どうか、誰でもかまわないから。俺でなくて、かまわないから。
彼女を壊さないように、守ってあげて。そう願うのが、ちっぽけな俺に出来る唯一のこと。


  

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