少しづつ、少しづつ。
彼女の心に、俺の心にひびが入り、そのひびは広がるばかりで。
気付かぬうちに、それに触れた人間は傷を負って、その傷もまた深くなって。
痛みの連鎖は幾重にも重なってしまう。
だから、あなたは、あなただけはその微笑みをずっと咲かせて欲しかった。
いつまでも、枯れぬように守り続けたかった。


空の果ての歌 5


「じゃあ、今日の部活はこれで終わりだ。以上っ、礼!!」
「「「「ありがとうございました!!」」」」
 
部長が声をかけ、部員全員で挨拶をする。これで、今日の部活も終わり。もうすぐ中間だな、とかボンヤリ思いながら、鉄棒にかけておいたタオルを手に取り、水飲み場に進む。暑い。冬なら今の時刻はもう真っ暗で、走るのを止めればすぐに汗が冷えて寒気が襲った。けれど空はまだ茜色で、世界は眩い光に包まれている。時間は確実に針を進めていた。
 ようやく着いてすぐに水道の蛇口を上に向け、思いっきり捻る。喉を通る水はどこか温くて、美味しくない。だけど顔を洗ったら、暑さは和らいだ気がした。顔を上げて目を細めれば、柔らかい風に前髪が揺れる。その感覚は、最後にあったひとみ先輩の姿を思い出させた。小さな背中がいつでも頭の裏に蘇る。
 
何度、その肩を抱き寄せたかっただろう。
 
何度、この気持ちを吐露してしまいたかっただろう。
 
けれどこの手は空を掴み、この声は吐息となって空に消えるのだ。あの笑顔を守るために、あの優しさの側にあるために、俺が出来ることは何も伝えないことだから。
 うっすらと瞳を開けて下を向き、タオルを取ろうとした瞬間、……水飛沫がかかった。
「!?」
 
その勢いに思わず仰け反ると、冷たい水は程なくして止まった。水滴の落ちる髪を掻き上げると、横から肩を叩かれる。振り返り、思わず顔がゆがんで舌打ちをしてしまった。
「うわー山口くんなぁにその嫌そうな顔!!顔!!」
「うるせぇよ馬鹿。吉田、おっまえホントふざけんな」
「ちょっとした茶目っ気心じゃんかー。広い心で見逃してよ」
「……そうか、そうだなお前も長距離走って疲れたろう、よしここに立て涼しくしてやる」
「……すみません調子乗りました、怖いんで満面の笑みは止めてください……」
 
ニッコリ笑って頭を鷲掴みにすると、血の気が引いた顔で吉田は首を振った。それに息を吐き、濡れた練習着のTシャツの裾を掴み、絞る。大分量があった。……何か汗だくみたいだな。タオルで拭っても拭っても落ちてくる水滴にちょっと困った。
「ひとみ先輩なら何か大爆笑しそうだよなー」
「え?」
「だから、ひとみ先輩。『山口汗すごいじゃんどうした!?』とか言って笑ってそう」
「……ああ、確かに」
 
不意に吉田が言った一言に、過敏に反応してしまった。けれどその言葉に思わず納得し、頷いてその姿を思い描く。確かにあの女(ひと)ならそうだろう。それできっと、『風邪ひいちゃうでしょ、お馬鹿』とか言って吉田を叩き、俺にタオルを渡してくれるだろう。
 あの優しい、柔らかい微笑みで。
 思い描いて知らず知らず、頬が緩んだ。そこで吉田がふと声をかける。
「な、な、そういえば部長がお前探してぞ」
「は?何で?」
「分かんないけど、何か言われた。今はどこかなぁ」
「ああ、山口。ここにいたのか」
「……部長」
 
横からかかる声に、顔を上げると部長が微笑んで立っていた。思わず表情が強ばる。何故だか嫌な予感がしたのだ。息も、詰まってしまいそうなほどの。吉田は気付けばいなくなっていた。……考えてみれば、部長とこうやって話すのはあの時以来だ。その時のことを思い出し、また少し胸がズキリと音を立てる。部長はそんな俺には気付かず、髪を指さして苦笑した。
「吉田にやられたのか?それ」
「……あ、ハイ、そうです。よく分かりましたね?」
「こんなことする奴はあいつくらいしかいないだろ。良くも悪くもガキだなあいつは」
「言えてます」
 
頭をタオルでがしがし拭きながら、部長の言葉に笑い返した。このまま、帰ってしまいたいと心底思う。通り抜ける風に反射的に身震いをしたと同時に、部長は真剣な顔になって、射抜くような視線をくれた。
「山口に、頼みがある」
「……何ですか?」
「難しいことじゃないんだ。お前、葉村がどこの病院に入院してるか、先生から聞いたよな?」
 
――先輩の名前が部長の口から飛び出して、髪を拭く手が自然と止まる。
 心臓の音がやけに大きく耳元で響いた。さっき確かに潤った口の中が、徐々に乾いてくる。

 
音が、聞こえた。
 
ひとみ先輩の事故から、ずっと耳元で鳴り響く音が、今、また。

「あいつに、話したいことがあるんだ。――連れて行ってくれないか?」




まるでガラスが粉々に砕けるような、音が。
優しい日々を、思い出をその中に隠して、全て一緒に。


  

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