あなたの笑顔は何よりも優しい。
だけれど時に、何よりも残酷なのだろう。
その笑顔を守ることも、掻き抱くことも出来ない俺を、どうか許さないでください。


空の果ての歌 6


「山口、悪い待たせた。行くか」
「ああ、はい。大丈夫です。行きましょう」
 あれから、一週間。テスト休みに入った今日、俺と部長はひとみ先輩に会いに行く。一応事前に会いに来るとは伝えたが、彼女は静かに微笑んだだけだった。何かを悟ったような微笑みで。
 病院に向かうバスへと乗り込み、他愛も無い会話を交わす。なんだか部長と二人でこういう公共の乗り物に乗ると、周りの女子の視線が痛い。部長は、男の俺から見ても良い顔立ちしてるから分からなくもないが。しかし当の本人はまるで気付かない。しみじみ鈍感というか、罪な人だとため息を吐いた。しばらく揺られ、病院前の停留所に停車する。バスから降りてからはしばらく無言で、石段を登った。
「この階段、きついな」
「あははっ。部活後とかに登ると死にますよ」
「そうだろうな。……っと。はぁ、俺も体力が落ちたな」
「部長が落ちたんだったら俺なんかひどいもんですよ、もうちょっとで着きます」
 
額にうっすらと滲む汗を拭う。いつも、この道を歩くときは走っていた。けれど今日は、どう考えても遅すぎるペースでここを登っている。
 見たくないのだ。自分では決して引き出すことのできない、ひとみ先輩の笑顔を。先輩は、部長が来るのが一番嬉しいに決まってるのに、俺はあまりに身勝手な思いを持て余して。
 汗ばんで張り付いたYシャツの裾を少しまくった。木漏れ日を吹き抜ける風を感じながら、病院へと入った。

「ここの病室です」
「ああ。山口は?入らないのか?」
「ええ。二人の方が、話しやすいでしょう?」
「別に、そんなことは気にしなくてもいい。廊下よりも病室の方が涼しいだろう、行くぞ」
「……はぁ」
 
部長を病室の前に案内し、ドアの前で待っていようと思っていたら、部長の思わぬ言葉に躊躇った。部長は穏やかに笑ってドアをノックし、入室を促す。
 分かってる。俺は、逃げたいだけだ。現実から目を背けていたいだけなのだ。いつか必ず壁にぶつかると分かっているのに、それでも竦む足を動かすことは出来ない。俺は臆病で、どうしようもないほど弱い人間で。いつになったら、この螺旋は終わるのだろう。未来はあまりに先が見えなくて、少し怖くなった。

 
病室に入ると、ひとみ先輩はいつものようにベッドに腰掛けて、こちらにむかって少しはにかんで見せた。その表情に、鼓動が跳ねる。……同時に、痛みも。あの表情は、自分に向けられたものではないと、知っているのに。
 部長もまた笑いかけ、先輩のベッド脇に置いてある椅子に腰掛けた。俺はどうしていいか分からず、とりあえず腕を組んで近くの壁にもたれかかる。目を細めて悲しげに笑った部長は、ゆっくりと優しく話し始めた。
「久しぶりだな、葉村。きちんと休んでるのか?脱走なんてしてないよな?」
『久しぶり。何なの?山口といい部長まで私を馬鹿にしてさー。ゆっくりさせていただいてますっ』
「ああ、悪い悪い。ただお前はじっとしてるのが苦手だから心配だったんだよ。無事なら良かった」
『ごめんね、大事な時期にこんな……。出来るだけ早く退院するから』
「別に葉村が謝る必要は無い。焦ると息が詰まる。気持ちはわかるが出来るだけ心は落ち着かせろ」
 
テンポよく進む二人の会話。部長の言葉はどこまでも深く、落ち着いていて、一旦切るとひとみ先輩の頭を優しくなでて見せた。それに対し、顔をほころばせる彼女。見ていられなくて、思わず瞳を瞑る。真っ暗で、何も見えない。それにやけにホッとした。見なくてすむなら、見たくない。一人黙って目を閉じ、俯く。その間も二人の会話は続いた。ひとみ先輩は筆談だからどうしても間は開くけど、その間をお互いゆっくりと楽しむ気配を感じる。
 限界だ、と口の中で呟く。
 気付かれないように、外に出て行こう。この空気の中にいるのは、どうにも辛いのだ。たくさんの見えない鎖が、俺の手足に絡みつくように、動けなくなる。
 ゆっくり壁から身を起こし、動き出そうとした瞬間、部長の言葉に俺は動きを止めた。

「葉村。――柏木と、付き合うことになった」

 あまりに、ハッキリとした声音。驚きのあまり、目を見開く。固まったままの俺は、首だけ二人に向ける。
 彼女は静かに微笑んでいるだけだった。何かを悟ったような微笑みで。

 そんな、はずは、無い。そんなはずは。

『柳原くんが来るって時点で分かってたよ。上手くいったんだ。良かった。いつから?』

 
だけど、そうじゃなきゃ説明がつかないんだ。

「お前が事故にあって、すぐだ。出来るだけ早く言いたかったんだが……遅くなって悪い」

 
ああ、俺は本当に何も理解していなかったんだ。

『ホントだよ!!未歩紹介したの私だよ?一番に言うべきじゃなかったのかなー?』

 ――
ひとみ先輩は、知っていたんだ。
 最初っから。俺の言葉が、嘘だったなんて。

 悪戯っぽく笑って、片目を瞑った先輩に、部長は苦笑した。からかうように、まるでそれがなんてことでも無いように、友達の幸せを、彼女は笑って受け止める。
 不意に、ひとみ先輩は俺の目を捉えた。表情を一変し、悲しく微笑んで、口だけをゆっくりと動かす。

                       『ご  め  ん  ね』

 ――あなたは、全てを分かっていた。その上で、俺の馬鹿馬鹿しい嘘に、騙されてくれてた。
 何も見てないのは、俺だった。目を閉じ、耳を塞ぎ、声を抑えて、何も知ろうとしなかったのは、俺だった。
 
責めてくれればいいのに。いっそ、全て俺のせいだと罵ってくれたらよかったのに。
 ただ微笑む彼女の笑顔は、あまりに美しく、あまりに儚く。





世界は、崩れなかった。
最初から、きっと崩れてた。何もかも。

零れない涙の行方を、風がさらう。
力の限り握りしめた拳から滴る血が、真っ白な床へと滑り落ちた。


  

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