風に舞い、落ちる花びらを掴むことが、出来ない。
そのまま、水面に浮かぶ美しき欠片を掬うことも、出来ない。
けれど、目で追い続ける。
心のまま揺れる貴女を、いつまでも瞳に映す。
その涙を拭うことは、出来ないけれど。その細い掌を握ることも、出来ないけれど。
貴女が望む限り、笑う限り。

側にいてみせるから。


空の果ての歌 7


「っと。もうこんな時間か。そろそろ帰るな」
『あ、ごめんねこんな時間まで引き止めちゃって』
「俺がいたかっただけだから、気にするな。……山口?帰るか?」
「え……あ、はいっ」
 
放心状態だった俺は、突然かけられた声に慌てて返事を返した。蒼い世界は、とっくにオレンジ色へと姿を変えていた。苦笑した部長に、背筋を伸ばす。それでも、ひとみ先輩の顔が見れなかった。
 全部気付いた上で、あんなにも嬉しそうに微笑んだ彼女は、部長への思いの深さが余りに、強くて。その気持ちを引き裂いたのは俺なんだと、苦しくて息すら出来なかった。こんなことなら、最初から何も言わなければよかったのに。俺がしたのは、わざとらしく先輩の心に揺さぶりをかけただけ。その事実は、更に心に重くのしかかって、苦虫でも噛みつぶしたみたいな気分がで、苦しくて仕様が無かった。
 挨拶だけでもしようと、ベッドの側による。

「じゃあ、ひとみ先輩。……また」
 ――その時、ひとみ先輩は黙って俺のシャツの裾を掴んだ。
「っ、え、」
 
その真意を図ろうと彼女を見つめるが、黙ってスケッチブックに文字を刻む。部長は俺とひとみ先輩を不思議そうに眺めていた。しばらくたって、ニッコリと先輩は笑い、スケッチブックを立てた。
『山口は、ちょっと用事あるから残ってもらうね?柳原君だけ先、帰っててもらってもいい?』
「え、ああ、俺は別にかまわないけど……」
 
驚いたように先輩と俺を順番に見た部長は、首を傾げつつもバッグを担いで軽くお辞儀をして出て行った。先輩はニコニコと手を振り、ドアが、閉まる音がする。静かな病室に、時計が針を刻む音だけ木霊する。息をするのすら躊躇いを覚えるくらい、ここは静かで。時折、薄いワイシャツ越しに感じる冷たい先輩の指に、体温が一気に上昇する気がした。
 
しばらくして、ひとみ先輩は不意に顔を上げる。俺とは反対――窓の方を、見つめて。掴んでいた手を離して、ベッドから降りて窓際へと歩み寄った。少し寂しくなったけど、黙って彼女を追いかける。俺が黙って隣に立つと、彼女は書いていたらしい文字を見せてくれた。
『雨』
 
顔を上げると、しとしとと静かに葉に雨が当たる音がした。瑞々しく、青く輝く樹木の葉。まだ夕方なはずなのに、世界は真っ暗で、この世界には俺とひとみ先輩二人しかいないみたいに感じる。窓ガラスに映る彼女の顔は、ここじゃない何処かに意識を飛ばしてるみたいで。
 何を――誰を思ってるんですか?
 そんな質問を、心の中でひっそりとした。
 黙ったままその仕草を見つめていると、彼女はぺらりとページを捲りスケッチブックを見せてくれた。そこには小さな字で、何か綴ってある。
『山口、10秒、目を閉じて?』
 
訝しげに思って彼女の顔を覗くと、ハッキリとした頷きが返ってくる。力強い瞳に気圧されながら目を閉じて、静かにカウントを始めた。
 1……2……3……
 先輩は、何を考えてるんだろう。
 俺への、怒り?戸惑い?悲しみ?
 どうか、伝えて欲しい。俺は馬鹿だから、言ってくれなきゃ何一つとして理解出来ない。

 口から滑る数字は、やがて10となり。真っ暗だった世界は、光を切に求める。
「ひとみ先輩?目、開けてもいいですか?」
 
返事は、無い。再度呼びかけても、応答はなかった。
 ――そこで、ようやく違和感に気付く。明らかに人の気配がない部屋。
 もしかして……っ。
 突然開いた目に蛍光灯の光は眩しかったけど、誰もいないのに気付いてすぐさま病室から飛び出す。

 
どこに。どこに、消えてしまった?
 
いつだって、そうやって、貴女は俺を置いていく。
 追いつけたと思っても、気がつけばまた距離は開いて。
 
いい加減、苦しいんだ。
 誰でもいいから、なんて真っ赤な嘘だ。
 俺であってほしい。
 ひとみ先輩を、幸せにするのは。貴女が微笑むのは、俺の側であって欲しいんだ。

 
この身勝手な思いを隠すのは、もう無理かもしれない。貴女を、傷付けすぎた俺では、もう貴女の側にいる資格を無くしたかもしれない。
 ――
だけど、一緒にいたいから。
 そのために、俺はこうやって先輩を、求める。探し続ける。

 何処かで、看護婦さんに怒鳴られた気がする。それでも、足を動かし続けた。息が苦しい。全身が重くて、足が悲鳴をあげる。がむしゃらに、フォームも何も無しに走ったから、仕様が無いのかもしれない。でも、それ位精一杯だったんだ。
 ねぇ?気付いて、いますか。俺をこんなに掻き乱すのは、苦しくさせるのは、幸せにさせるのは、――貴女だけだと。
 適当に開けた、裏庭へ続くドア。
 
そこには、ほっそりとした体を容赦ない雨に晒す、ひとみ先輩がいた。

「ひとみ、先輩」
 
呼びかけると、彼女は少し肩を揺らした。久々に見る下ろした髪には雫が伝って、もう夏だというのに寒々しい。振り向かない彼女は、少し顔を上げ、空を仰ぐ。ゆっくりと吐息を吐くと、ようやくこっちに視線を向けた。
 真っ直ぐな、けれど、揺れる瞳。唇は震え、その目元から輝く何かが落ちた。白く滑らかな頬を流れる水滴に、思わず目を奪われる。気付かぬうちに、息を呑んだ。
 あまりにこの世離れした美しさに、今にもひとみ先輩が儚くかき消えそうだと思って。
たまらず、雨の中に飛び込んだ。
 
濡れてるな、とか。頬にへばりつく髪がうざったいな、とか。ぼんやり考えながら、だけど足早に、彼女の元へ。
 ――それでも、一定の距離で、立ち止まった。
 何も言わず、ただこっちを見つめる先輩に、笑ってみせる。
「先輩?濡れちゃいますよ?」
「……」
 
返事は、無い。分かってはいるけれど。それでも何処かで、焦がれる自分は、いたんだ。
 顎を伝う雫は、ワイシャツに滑って、段々と染みになっていく。それを見て、不意に先輩の肩を見ると、着ているパジャマはもう服としての役目を半分果たしていなかった。それにちょっとため息を吐いて、無言でワイシャツのボタンを外す。驚いたような先輩の視線と絡んだけれど、苦笑して脱ぎ去った。黙ったまま、彼女の頭に被せる。あまり防水効果は期待できないけど、無いよりはマシだろう。多分、今俺が何を言っても。ひとみ先輩はここから動かないだろうから。今日は丁度、タンクトップを着てて良かった、と心底思う。ポンポンと彼女の頭を撫でてやると、先輩は目を見開いてから、慌ててワイシャツを外そうとした。その手首を掴んで、止める。冷えてはいるけれど、俺の指先に確かに温もりを伝えていて。それに心底ほっとした。
「大丈夫ですよ、ちゃんと着てますし。汗臭いかもですけど、我慢してください」
「っ、」
「俺が、したいだけですから。出来るなら、拒否しないでください」
 
流石に傷付くんで、と笑うと先輩は目を潤ませて、小さく頷いた。一瞬、出ない声に歯痒そうな顔を浮かべたけれど、それも断ち切って、俯く。力無く震える彼女は、今までにないほど小さく見えた。
 雨の音は、一層激しさを増す。そんな中、無言で突っ立っている俺たちは、きっと他人から見れば途方もない馬鹿なんだろう。一人そんなことを考えて、苦笑してしまった。
 掴んだままの手首に、彼女は拒否する素振りも見せない。
 だから、離せない。離したく、ない。今は何故か、あんなに遠く感じた先輩を、ひどく近くに感じられるから。
 
時の流れに身を任せると、不意に胸元に温もり。
 驚いて視線を下げれば、――腕の中には焦がれる彼女がいた。黙ったまま、俺のタンクトップを必死に掴んで、顔をそこに押しつける。
 そこで、やっと気付いた。明らかに雨ではない、何か別のもので濡れていく感触。息が、詰まった。
 時折震え、聞こえない嗚咽が耳に響く。先輩の顔は見えないし、多分見られたくないんだろう。
 だから、黙って。――その体を、抱きしめた。細い肩を覆うように、すっぽりと。一瞬、大きく揺れる体。だけどそれは無視した。力は、込めてない。先輩が振り解こうと思ったら、すぐにでも解ける弱さ。何も言わず、先輩は力を抜き、その体を俺に預けた。それに安堵か何か分からない息を吐き、先輩の頭に、ワイシャツ越しに額を押しつける。漂う甘い香りは、彼女の香り。
「……せん、ぱい。ひとみ先輩」
「……」
「ごめんなさい。俺、ずっと、ずっと嘘ついて……先輩を、騙して……っ」
 
吐息ともつかぬ、小さすぎて、弱々しい謝罪の言葉。だけど先輩は何も言わないまま、脇腹あたりのタンクトップをギュッと握ってくれた。多分、先輩なりの「許す」ってサイン。でも、それに納得出来るはずもなくて。そのまま、馬鹿みたいに謝り続けた。
 
「ごめんなさい」と。
 
「貴女を、騙し、傷付けた」と。
 
狂ったように繰り返される、俺の言葉。永遠に続くように思えたそれは、不意に包まれた頬の温もりによって遮られた。焦点の合わない瞳を下へおろすと、彼女の真っ赤に充血した瞳に出会った。俺の頬を流れる雫を、その指先で優しく拭ってくれる。
 そして、いつものあの笑顔を見せた。――どこまでも、優しい微笑みを。
 それに、心臓を丸ごと揺さぶられたような感覚に陥る。ふわふわとした不安が、全部どこかに吹っ飛んだような気がする。苦しくて、愛しくて、脳味噌がグチャグチャして。世界から、たった一つの言葉を残して、全部の知識が飛んでいった。
 気付けば、肺から空気を追い出すように。あまりにも自然に、あまりにもあっさりと、言葉は空気へと飛び出していく。

「――好きです」

 結局、俺が貴女に告げたいのはその一言なんだと自覚させられてしまった。単純すぎて、いっそ泣いてしまいそう。謝罪でも、嘘でも無い、真っ白な、俺だけの言葉。貴女のためだけの、言葉。
 口から零れた言葉はもう戻ってこないし、それでいいと思う。真っ直ぐな視線に、どうしようもなく胸が熱くなった。
 彼女の目元を、また流れていく雫を黙って掬う。……ほら、触れるのだって簡単。俺は今まで、どうしてこんなに戸惑ったのか。躊躇ったのか。何を、怯えたのか。結局、その根底にある思いは、先輩が好きだって気持ちだけだったのに。
「好きです、ひとみ先輩。貴女が、貴女だけが好きなんです」
「……」
「だから、どうか一人で泣かないで。俺は、貴女の側に、いるから。貴女の側に、ずっといるから」
 
堰を切ったように溢れ出す思いは、止まる術を知らなくて。先輩が口を挟む隙が無いように、言葉を重ねる。彼女の言葉を聞くのが、本当は少し怖い。言えるはず無いのに、分かってるのに、何故か口は止まらない。叫ぶように続く俺の言葉は、だけどその瞬間、かき消えた。
「え、……?」
 
呆けたように、馬鹿みたいに口を開けてひとみ先輩の顔を見つめる俺に、彼女はくすくすと笑い声を漏らし。目を細め、愛おしいものでも見るように、緩やかに口角を上げ、穏やかに笑った。

「――ありがとう、山口」

 少し高く、そして甘い声。久々に聞いたそれは、少し記憶と違っていて、でも紛れもなく、ひとみ先輩で。涙を流しながら微笑む彼女を、今度は力の限り、抱きしめた。だけど、彼女は何の抵抗もせず、優しく俺の背中に手を回してくれた。
「せん、ぱ……っ、ひと、み先輩……っ」
「うん、……ごめんね、山口。……ありがとう」
 
先輩が何に謝ってるのか。何に感謝を言ってるのか。俺には何一つ、分からなかったけれど。
 今、俺の腕の中に在る温もりが、愛しくて、大切で、何よりも大事にしたいと、心底思った。ただ子供のように、その存在を呼び、求め。目の前のこの人を、俺はきっと永遠に失えないだろうとぼんやり感じた。




何度も、何度も、遠回りをして。
自分の気持ちすら、見失って。
何も見えなくなったとき。
差し込む光は、いつだって貴女なんだ。
この温もりが側にある。
この微笑みが、ここに在る。
それだけがきっと、まるで子供みたいな俺の全て。
どこにいたとしても、何をしていたとしても、きっと俺の求めるものはここに還るから。
どうか、側にいることを。
貴女を求めることを。
――貴女を愛することを、許してください。


   

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