心の中で、いつも輝く微笑みがある。
その優しさに触れる度、何度も涙を、笑顔を、深い憧れを抱いた。
まるで遠いあの空に想いを馳せるような、そんな感情を。
けれど貴女は俺が思うより、ずっと側にいてくれた。
躊躇わなければ、いつだって触れられる距離に。

――どうか、離れないで。

俺はもう、この手を捕まえることから逃げ出したりしないから。


空の果ての歌 8


 二週間後。テスト休み明けの部活が終わってすぐ、先生から集合がかかった。部員全員が集まったその場所には。
 短くなった、肩までのサラサラした黒髪。病院生活で随分細く、白くなってしまった腕がセーラー服から覗く。そしていつもの笑顔と、まだ聞き慣れないその声。
 ――ひとみ先輩が、とうとう部活に復帰した。
 部員たちは何の知らせも受けていなかったので、突然の登場に全員目が点だ。もちろん、俺も。

「と、いう訳で、ご迷惑おかけしました。明日から部活復帰致しまーす!!」
「ってちょっと前置きちゃんとしてくださいよ先生ー!!ひとみ先輩っ!!」
「む。いや葉村が黙ってた方が面白いと言うからな……」
「あははー、先生ありがとうございます」
「マジどっきりなんですけど!!なんなんすかもう!!」

 相変わらず、その悪戯っ子みたいな性質は健在らしい。ペロッと舌を出してはしゃぐその笑顔が眩しかった。最初は突然のことで驚いていたみんなもその顔にホッとして、マネージャーの後輩や女子部員は涙を零した。困ったように苦笑してその肩を撫でる先輩の横顔は、優しい。吉田などは先頭を切っていつも以上のハイテンションで騒いでる。勢い余って抱きつこうとした時はチリ、と胸が騒いだが先輩は笑ってその頭を殴っていた。
「えーじゃあみんなで先輩胴上げしようぜ胴上げっ!!」
「「「「さんせーい!!」」」」
「却下!!」
「え、何でっすか先輩ー」
「そうだぞ葉村、お前ノるべきところはノっとけよ」
「やだよ何でそんな恥ずかしいことしなきゃいけないの。ほらサッカー部とかまだ終わってない!!見てる!!」
「あはは、今更照れるタイプじゃないでしょ?ひとみ」
「そういう問題じゃない!!ていうか私が恥知らずみたいな言い方止めてよ……」
 
三十人近くの部員がはしゃいで、笑ってる。その中心にいるひとみ先輩は、それに劣らぬ美しい笑顔を浮かべて。
 ああ、やっぱりって思った。
 先輩の笑顔は、人を変える。悲しい人を、幸せにさせる。不安定な俺にとっての、確かな、そしてただ一つの光。
 先輩を囲む輪から少し離れた俺と彼女の視線が、不意に重なる。久しぶり――あれ以来、理由をつけて会っていない――に会うのと、パジャマ以外の格好、特にスカートから覗く足に急に気恥ずかしくなって目を逸らす。紅くなった頬をごまかすように、小さく息を吐いた。と、不意に横でクスクスと笑い声が響く。ちらりと見れば、そこには何故か部長がいた。

「……何ですか」
「いや。山口は、行かないのか?」
「今は、少し疲れてるんで。後でいいかな、と」
「そうか。……一番あいつの復帰を待ってたのはお前だと思ってたんだがな」

 その言葉に驚いて目を見開く。視線が合うと、部長は端正な顔を意地悪く歪め、笑った。
 まさか、と思う。だがその口振りを聞く限り、どう考えても明らかだ。疲れたように肩を落として、俯いた。そんな俺を見て、部長はますますおかしそうに笑う。

「いつから、ですか」
「いや、確信してたわけでは無いんだが。去年の夏休み入る前くらいからか?山口って基本的に誰にも執着しないし本気で笑うことも少ない割に、葉村に対してはいつも素だった気がしたから」
「……そういうところはちゃんと見てるんですね」
「まぁそうふて腐れるな。お前の見る目は確かだと思うぞ」

 相当前から、部長に俺がひとみ先輩を好きだってばれてたなんて。その割に、ひとみ先輩の好きな人には一ミリも気付いてないあたりが、部長らしい。優しく穏やかな視線。真っ直ぐな言葉。そのどれを取っても、敵わないと思い知らされる。俺の見る目は、確かにあるけど。ひとみ先輩の見る目も、相当すごい。笑ったまま、ゆっくり部長はひとみ先輩の元へと歩み寄る。それに気付いた彼女は、顔をぱっと輝かせた。俺に向けられない笑みは胸を激しく痛ませて、だけど微笑ましい気分にもなった。
 あの日、想いを告げたときから、ずっとそうだ。妙にすっきりして、胸のつかえが取れたような気がする。
 しばらく二人が話すのを眺めてから、グラウンドに置いたままのタオルを取りに、その場を去った。

 グラウンドの中央に立って、大きく息を吸い込む。猛烈に、走り出したい気分だった。空を仰ぐと、真っ青な世界が広がっている。だけどもうすぐ夕方だから、東の空はオレンジに染まっていた。少し蒸し暑く、だけどカラッとした空気は夏の到来を知らせている。
 上を向いたまま、一人ぼーっと立っているのは、はたから見れば変人だろう。だけど、目を瞑った。閉じても瞼の奥には、先輩の笑顔が蘇る。愛おしいその笑顔に小さく笑みを零し、目を開けようとした、その瞬間。


「もうっ!!山口足早い!!しかも相変わらず汗拭かないし!!」
「っ」
「これタオルでしょ?全く、全然変わってないなぁ」

 手からするりと抜ける布の感触。後頭部をグルッとタオルが回って、引っ張られた。俯く姿勢になり、見れば至近距離に彼女の微笑みがある。瞬間的に染まる頬に笑みを深めると、そのまま汗に濡れた俺の頭を拭いてくれた。頬を掠める指先に、全身が麻痺したみたいに動かなくなる。愛しい、恋しい、狂おしい、欲しい、と体全体がひとみ先輩を求めてた。
 一通り拭き終わったのを確認すると、手を離し、先輩は一歩距離を開ける。それにどうしようも無く切ない気持ちがこみあげるが、曖昧に笑って見せた。

「この間は、本当に色々ありがとね」
「いや、別に俺は何も……」
「私がお礼言ってるんだから素直に聞いてよ。本当に、山口には感謝してるから」
「……はあ」

 眉をひそめて返答すると、何がおかしいのか先輩は吹き出した。照れながらムッとして睨むと、大輪の花が咲き誇るような微笑みを浮かべる。
 ――狡い。そんな笑い方されたら、俺がひとみ先輩に怒れるはずもないのに。
 目を細めて、囁くようにポツリポツリと先輩は話す。

「……柳原くんのことは、ずっと前から知ってた」
「……」
「だけど、だけどね。山口の一言で、夢を見たいって、思っちゃったんだよ。あり得ないって、知ってたのに」
「ひとみ、先輩」
「それで山口振り回して、傷付けて、……ホント何やってるんだろうね、私」

 涙を湛えた瞳で、必死に笑う。その笑顔に、心がズキズキと痛んだ。
 違う。先輩のせいなんかじゃ、ない。全ては、俺の愚かな嘘が招いたことなのに。
 だけどそれを言葉にする直前に、先輩は頭を振ってニッコリと笑った。
「だからね、山口にお礼言いたかったの。ありがとう」
「っ、だからお礼言われるようなことなんて何も――っ」
「側に、いてくれたじゃない」
「……え?」
「雨の中で、ずっと一緒にいてくれた。ううん、それだけじゃないよ。私が辛いとき、いっつも一緒にいてくれた。
 ――それがすごく、すごく嬉しかったの。私にとって、それがすごく大切で、柳原くんのことがあっても私が笑えたのは、全部山口のお陰だから」

 ……
そう言って笑う先輩に、何故か分からないけど、頬を温かい雫が伝った。それが涙だと気付くのに、数秒を要した。驚いて、目を見開く。口内にしょっぱい味が広がった。
「え、あ、れ?何で……っ」
「……」
「す、すみません。すぐ止まるん、でっ」
「無理して、止めなくていいよ。好きなだけ、泣こう?」

 真っ直ぐな視線で俺を見つめて、目元の雫を掬う指先。その柔らかい言葉に、口を開いたけどすぐに歯を食いしばった。地面に落ちて行く、何粒もの水滴。彼女の指先を伝って、それは手首にまで落ちて、制服の裾に染みを作った。
 愛しい笑顔は、ぼんやりと霞む。それが悔しくて、悲しくて、怖くて。目の前の細い掌を、力の限り握りしめた。情けないくらい、震えてはいたけれど。それでも、精一杯。嗚咽にならないよう、苦労しながら言葉を吐き出す。
「せ、せん、ぱい、はっ、」
「ん?」
「迷惑じゃ、無いんで、すかっ?」
「迷惑……って何が?」
「俺は……っ、」
 
その先の言葉を言うのに、少し躊躇った。だけど多分、もう止められない。だって想いはこんなにも強くて、今にも柵は決壊しそうで。ひどい泣き顔のまま、先輩の掌を俺の頬に押し当てて、小さく叫んだ。
「ひとみ先輩を、好きでいていいん、です、か……っ!?」
 ぼろぼろ涙を零していう俺は、二回目の告白としては本当にひどく間抜けだろう。俺に告白してきた子たちは、こんなに緊張してたのかな。初めて芽生えたこの気持ちは、強すぎて呼吸も出来ないくらいで。問いかけられた先輩自身は、きょとんとした後、どこまでも深い笑顔を見せてくれた。
「――嬉しいよ。まだ、しばらくは無理だけどきっと追いつくから。待ってて、くれる?」
 その言葉に一瞬息をすることを忘れた。慌てて息を吸って思わず咽せると、先輩は必死に肩を叩いてくれた。だけど反射的にその手を掴み、指を絡める。心配そうに、不安そうに俺を見上げる先輩の目を見ながら、愛しいその指先に口づけを落とした。瞬時に真っ赤になって口をパクパクさせる先輩の手を引き寄せ、自分の頬を押し付ける。

「俺、ひとみ先輩を好きになって良かった、です……」

 囁くと彼女は赤みがさした頬のまま、少し俯いて「……もう」と小さく呟いた。そして顔を上げて、いつもと同じ、だけどいつもとは確かに違う、はにかんだ微笑みを見せる。
 後ろに輝く夕焼けは、今まで見たどんな空よりも、美しくて、きっと二度と忘れられなくて。その中心にいる彼女は、相も変わらず優しく言葉を紡ぐ。


「……私も、山口に好きになってもらって良かったよ」




貴女の囁く声が、俺の世界に響いて、浸透していく。
溶けるように、吹くように、それはまるで歌のように流れていく。
俺の世界は、ここにある。
俺の空は、ここにある。
こんな大きな星の、遥か隅の小さな場所だけれど。
俺にとっては何より大きな。

――ほら、今日も貴女が笑って、優しく俺の名前を呼ぶから。
それはまるで、ちっぽけな俺の、小さな空の果てへと、歌のように響くのだ。

  

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