22. 〜fever〜


 ――結論。
「美哉先生、今日もう帰りなさい?まだ園児来てないし、今の内に」
「……はい。すみません」
 次の日、朝起きて妙に身体が熱いな、と思って熱を測ってみたら、三十八度あった。くしゃみ鼻水咳頭痛。おまけに関節痛もある。だけど鍵当番だから、せめて朝の支度くらいは、と何とか職場まで重たい身体をひきずってやって来たら、二番目に来た園長先生に、そう言われた。
 子供は大人よりも風邪をこじらせやすい。それに保育園は働いていたり、忙しい保護者のために子供を預かる施設。風邪を引いたら、子供は家で一人寝ていなくちゃいけない場合が多い。そんな寂しい思いさせたくないから、園長先生の言葉に素直に従い、園を出た。
 ……身体が重い。歩くのすら一苦労だし、視界が霞む。でも明日には出勤したいし、今日はちゃんと病院に行って、薬を貰って来よう。
 駅に着き、電車に乗る。時間は七時前。のぼり電車は通勤ラッシュで混んでいるけれど、下りはガランとして、ほとんど人がいない。それに安堵しながら、電車に乗った。座ったら立ち上がるのが辛くなる気がして、近くのポールに掴まり、そのまま電車に揺られる。流れて行く景色を見ながら、ぼんやりとしていた。
 結局、寛人や玲子先生の言う通り、風邪だった。なのに突っぱねたりして、悪かったな。あの時一応でも何でも熱を測ってみたら、ここまで悪化することは無かったかもしれないのに。
 私はいつでも、考えが足りない。

「……は、ぁ」
 朝から開いている近所の内科で見てもらい、薬を貰った。そこの先生は同じクリーニング屋さんを利用しているから、一緒になった時はよく話しこむ。ふらふらの私を、とても心配してくれた。
 解熱剤を処方してもらい、他に薬局で冷えピタと飲み物を買いこんでいく。必要なものを一通り用意して家に着くと、もう身体中から力が抜けてしまい、足もぐずぐずで力が入らなかった。
「あ〜……」
 それでも、何とかベッドで寝なくちゃいけないと思い、四つん這いになって階段を上っていく。のろのろと服を着替えてパジャマになり、ひとまず掻いていた汗を拭いた。
買って来たペットボトルをベッド脇の机に置き、薬と一緒に飲み込む。冷えピタを額に張って、冷蔵庫から持ってきた氷枕を敷いて。最後に、クーラーの設定温度を二十七度にして、タオルケットを被った。
 熱い。だるい。身体中に、力が入らない。骨が抜けたみたいに、腕も足もぐにゃぐにゃしている。急に寒気がしてきて、自分を抱き締めるように、丸くなった。
「……」
 だけど、何となく。ベッド脇に置いてある携帯が気になって、手を伸ばした。
 カチカチとボタンをいじり、メール画面にする。新着メールは来ておらず、最後の受信メールの日付は、昨日の午後四時。送信者名を指でなぞり、大きく息を吐いた。
『洒井 寛人』
 もしかしたら、もう。この名前は、ここには並ばないのかもしれない。そう思うと、胸の中にぽっかり穴が空いたように感じた。
 そうなっても、仕方ない。だって私から、彼を拒絶した。心配してくれたあの人を。そんな恩知らずで面倒な人間、誰だって遠ざける。
「……っ」
 衝動的に、携帯を布団の上に投げ出した。マットレスの弾力で、一度ぽん、と跳ねて、ゆっくりと沈む。そちらを見ないようにして、タオルケットに顔を埋めた。
 ――ごめんなさい
 もしももう一度その顔を見ることができたのなら、ちゃんと伝えられるのに。
 それが最後だったとしても。きちんと謝って、そして――

* * *

「……?」
 次に目が覚めた時。カーテンから、夕陽が射しこんでいた。汗で濡れ、張り付いたパジャマに顔を顰めながら、目覚まし時計を確認する。もう、五時だ。ざっと計算すると、九時間近く寝ていたことになる。風邪の時は、一度眠るとあっという間に時間が過ぎていく。それだけ体力を消費しているということなのだろう。
 まだ少し、節々が痛む。だけどシーツに手をついて、上半身を起こした。その時触れた濡れた感触に、シーツも変えなくちゃなあ、とため息を零す。
 まだだるいけれど、解熱剤を飲んだお陰か、汗を掻いたお陰か。熱さは大分引いた気がする。代わりに、乾いてカサカサになった唇を潤すため、ペットボトルの中身を一気に飲み干した。それでもまだ喉が渇いている気がするので、冷蔵庫に取りに行くことにする。どちらにせよ、ご飯を食べて薬を飲まなくちゃいけないし、一気に済ませたい。そう思い、夏用の薄手のパイル地パーカーをパジャマの上に羽織って、寝室を出る。
 そしてリビングに向かう扉を、開けた。

「――起きたか」
 はず、なのに。私はまだ、夢を見ているのかもしれない。

 目を丸くして、固まる私の目の前には。
 ストライプシャツに半ズボンという、何とも夏らしい格好をした、寛人。その右手には小皿、左手にはお玉がある。目の前には、コンロにかけられた小鍋。ということは、料理中なのだろう。その光景も、何もかも。信じられなくて、私は、ただただ呆然としていた。
 視線を、私から自分の手元に落とした彼。カチ、とコンロの火を消した音がして、次に上の棚から、食器を取り出す。そしてお茶碗を手にすると、鍋の中身をお玉で掬い、お箸と一緒にお盆に載せた。さらに冷蔵庫から色々取り出して、どんどん載せていくと、あっという間にお盆は一杯になる。寛人はそれを真っ直ぐにテーブルに運ぶと、立ち尽くしたままの私を見て、手招きした。
「何立ってるんだ。早く来い」
「え……あ……」
「……歩けないのか?」
 普通に話しているその姿も、信じられなくて。言葉にならない返事をする私に、寛人は眉を寄せた。でも何だか、ものすごく変な方向に誤解されている気がして、慌てて首を振る。そして、のろのろと歩き始めた。
 座布団に座ると、私の目の前にどんどん色んなものが置かれた。おじやに、卵豆腐、野菜の煮付け。ゼリーとすりおろし林檎もある。
 ぽかんとする私に、寛人は苦笑した。
「ほとんど、買ってきた奴ばっかりだけどな。食べきれなかったら残していい」
「あ……ありが、とう」
 掠れた声で、お礼を言う。寛人はもう一度笑って、自分の分のお箸を持ってきた。窓の外では、まだ夕焼けが光っている。そんな時間にご飯を食べるなんて、不思議な感じ。それより何より。今、目の前にいる人が。まるで幻みたいで、……信じられなくて。
 一人暮らしを始めて四年、その間風邪を引いたことは何度かあったけれど、いつも一人でご飯を用意していた。実家にいた時も、両親が共働きで、お兄ちゃんも学校に行っていたから、作ってあったご飯を一人で温めて食べて。
 だから、こういう状況、初めてなんだ。風邪を引いた時に、目の前に人がいること。一緒に、ご飯を食べてくれること。――そして、それが寛人だなんて。
  寛人が食事に手を付け始めるのを見て、私も慌ててスプーンを握る。おじやは、汁気が多くとろとろに煮込んであった。正直、鼻がつまっているから、味なんてあまり分からない。それでもそれは、今まで食べたどんなものよりも、美味しく感じたの。心から。

 食事を終えて――結局半分以上残してしまった――、薬を飲み。その間に寛人は氷枕を冷やして、部屋のシーツを替えてくれた。後片付けまでしてもらい、非常に申し訳ない。でも寛人は、笑ってくれるから。だから甘えてしまう。その感覚が、とても心地良いものだから。
「……さて」
 一通り家事を終えたらしい寛人は、こちらへやって来ると、私に向かって腕を伸ばして。
「っひゃ、あ」
 軽々と、私を横抱きにした。突然足場を失って、その不安定さと心もとなさに、慌てて寛人の首にかじりつく。ふわりと香る、寛人の香り。目の前にある寛人の横顔に、距離に、目が回る。
 今はきっと、すごく汗臭いだろうから、離れた方がいいって。自分でもよく分かっているのに、触れた腕を、離せない。それは、きっと。
 早足で寝室に戻った寛人は、私をベッドに横たえると、自分はその横に座りこんだ。今更だけど、この寝室に寛人が入ったことは、今まで一度もない。だからものすごく、気恥かしさを感じてしまう。寛人本人は、気にしてないみたいだけど。
「……じゃあ、後はもう、ゆっくり寝ろ」
 電気が点いていない部屋を照らすのは、漏れてくる外灯の光だけ。うっすらと闇に溶けたその輪郭を暴きだし、静かに照らす。ほんの少し吊りあがった唇が、やけに優しい。
 その手が、ゆっくりと私の頬を撫でる。熱い、あつい。だけどそれは、心地良いから。離れていく手を、――握り締めていた。
 驚いたように、身を引く寛人。それでも、その手は離せない。私の大好きな、その手は。
「美哉……?」
「……か、ないで」
 戸惑って私の名前を呼ぶ、声。それすらも、何もかも。
「どこにも、行かないで」
 いつだって、側にあって欲しいのに。

「……昨日、ごめんなさい。ひどいこと言って、ごめんなさい」
 何度も、その背中が夢にまで出てきた。その度飛び起きて、また眠れなくて。今でも、少し信じられない。寛人がこうしていてくれること。だって、ほんの一カ月前まで。私はずっとこの部屋で、一人の時を重ねたのだから。
「すごく、後悔、したの。寛人がもう、ここには来ないんじゃないか、って。もう、こんな風に隣にいられなくなるんじゃないか、って」
 だけどもう、あの時には戻りたくないよ。寛人がこの部屋にいる、充実感。安心感。それを絶対に、失いたくない。
「ごめんね。ごめんなさい」
 何度だって、謝るから。何度だって、言葉にするから。
 だから、どうか。

「……ずっと、一緒にいて……っ」

 話しながら、体温が上がっていくのが分かった。それに伴って、目から零れだした涙が、首筋にまで流れて、パジャマの襟を濡らす。汗のようにぬるぬると滑って、気持ちの良い感触じゃない。でもそれを拭う気力もなくて、枕に掛けてあったタオルに、擦りつけた。
 しばらく、寛人は黙りこんで。そして不意に、握っていただけの手が、とても強い力で、握り返される。痛いとすら感じるそれに、小さく眉を顰めるけれど、力は緩まなかった。
「昨日、出て行ったのは」
 暗闇の中で、寛人の声が聞こえる。私の鼓膜を揺らすそれに、不思議なくらい、頃が安らいだ。
「……あのまま俺がここにいたら、美哉が疲れると思って。興奮して熱上げちゃまずいかと思ったんだけど」
 逆効果だったな、と言う。不意に、前髪に触れられて。身を縮める私が見えているのか、小さく響く笑い声。
「大丈夫だ」
「え、」
「ずっと、ここにいる。美哉の側にいるから」
 ぎゅ、と握りこまれる手。指先に、柔らかいもの。最初何か分からなかったけれど、ちゅ、と響く濡れた音に、それは唇だと知った。
 思わず顔をかっと熱くするけれど、それは離れる気配を見せない。彼が息をする度に、指先が擽られているみたい。くすぐったくて、小さく笑ってしまう。
 例えその言葉が、この場限りの口約束だとしても、構わない。彼がその言葉を言ってくれた時の気持ちは、本物だと信じているから。
 手を握るその温もりを感じながら、私はゆっくりと、目を閉じた。

* * *

 ―チュンチュン
「……ん、」
 朝を告げる鳥の鳴き声。カーテンの隙間から差し込む日射しが、顔を照らす。その眩しさに目を細め、それからゆっくりと開いた。
「ん……?」
 額に手を当てると、温くなり、ぷにぷにした感触。頭の下には、溶けてしまった氷枕。そこでやっと、風邪で寝込んでいたことを思い出した。そして。
「……」
 ベッドの上に、置かれた頭。床に座り込んだ状態で、彼はすっかり寝入っている。いつから、ここで寝ていたんだろう。時計を確認すると、時刻は午前五時過ぎ。今日は遅番だから、出るのは九時半頃でいい。だから何となく、背を曲げて彼の顔を眺めた。
 横向きに、頭の下に腕を敷いて、穏やかな寝息を立てて。上下する肩と胸に、触れたくなって。でも、止めた。
 ――手を、繋いでいたから。
 しっかりと、寝ているはずなのに握りこまれたままの手。それは寝る前と同じで。
『ずっと、ここにいる。美哉の側にいるから』
 守って、くれたんだね。寝付くまでだって、そういう意味だと思っていたのに。側にいてくれた。私の身勝手な願いを、叶えてくれた。
「――」
 その瞬間。ぽたりと、涙が零れた。
「……も、……だめ、だね……」
 朝の空気の中で、落ちた言葉は。きっと一番、私の本音を露わにしていた。

 


 どんなに、誤魔化そうとしても。
 どんなに、嘘を吐いても。
 最初から全て、無意味だった。
 私は、他の誰にも。誰にも、心揺れなかった。この二十四年の間、一度も。
 ただ一人、寛人以外。
 そんな相手、忘れられる訳がない。
 そんな気持ち、忘れられる訳がない。

 ――好きだ

 八年前から、あなただけを、思っていた。
 そこに怒りや悲しみや、たくさんの感情を上に重ねて、塞いでいただけ。
 だけどもう、そんなものは、何の意味も持たない。
 壁は剥がされ、ガラスは砕かれ。
 後に残るのは、寛人への恋心。それだけだから。

 


 安らかなその寝顔に、重ねた感情は。何年も我慢して、奥に隠していた感情は。私の胸を一杯にして、涙となって、溢れだす。
 私はもう、それを止める術は、持ち合わせていなかった――。
 


 

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