26. 〜past〜


 いつから、惹かれていたのだろう。
 ただ、初めて見た時から。
 目を逸らすことが、出来なかった。

* * *

「じゃあ、今日はこれで終わりなー。気をつけて帰れー」
 帰りのホームルームを終えて、教室はざわざわと騒がしくなる。俺も机の横に掛けていたバッグを取り、早速教室を出た。もちろん、いつも通り部活に向かうため――ではなく。
 先日公欠で休んでしまったので、提出し忘れた化学の課題を持って行くためだ。あまり化学は得意でないので、万が一補講にでもなったら面倒臭い。そうならないように、一応真面目にやっているところを見せるか、程度の気持ちで職員室に向かった。
 丁度先生が留守だったので、机の上にプリントを置き、さっさと職員室を出る。夏の大会まであと一月もない。一刻も早く、練習をしたい。そんなことを思いながら、下駄箱で上履きとスニーカーをはき替えている時。
「お願いします!」
「そう言われてもね、粗雑な扱いをされても困るの」
「そんなこと、絶対にしません。ちゃんと注意します。だから、お願いします!」
 大きな声が響く。何となく気になって首だけそちらに向けると、一人の女子が俺に背中を向けて立っていて、音楽の先生がそれに対峙していた。
 先生の方は、確かまだ二十代とかで若い上に美人で、俺の周りもよく騒いでいる。だが性格はなかなかにきつく、しかも厳しい。それで萎えた奴も多い。
 今も頭を下げる女子にため息を吐いて、「私の一存じゃ決められないから、また今度ね」とさっさと去って行ってしまった。
 その場には、一人。何を頼んだか知らないが、突っぱねられた女子だけ。俺は割と体格が良いらしいけれど、それを抜きにしてもその女子は小柄に見える。小さい背中を丸めて立ち尽くすその姿に、同情心が芽生えた。
 けれど、次の瞬間。女子はぱん、と自分の頬をはたいて、振り返る。慌てて見えないように隠れたが、女子はこ俺に目もくれず、真っ直ぐに前だけを見ていた。その瞳は、何物も寄せ付けない強さがあって。
「……」
 窓から差し込む日射しが、その女子の顔を照らす。それに少し眩しげに目を細める姿も、揺れる前髪も、スカートの裾も、軽い足音ですら。
 ――目が、離せない。
 結局、階段を上って行くところまで何となく見つめてから、小さくため息を吐いて、下駄箱に背を預けた。
「……何やってんだか」
 高校に入って、二か月。その時初めて、俺は彼女を、意識した。

 次の日に教室に入って、昨日の女子は同学年――しかも同じクラスだと言うことに気付いた。吉倉美哉、というらしい。出席番号がかなり離れているからなのか、どちらにしろ余り存在感があるタイプでもない。何より、よく隣に学年一美人だと評判の川崎がいるからか、ますます目立たなかった。
 教室で、他の女子と笑って話す姿。授業中、船を漕ぐ姿。小柄でちょこまかと歩きまわる姿は、確かに見ていて和む。割と可愛い。だけどその可愛さというのはあくまで『可愛らしい』であって、『可愛い』ではない。子供や小動物を見ている時のような、決して異性を見て感じるものではない。
 なのに、どうしてなのだろう。暇があれば、その姿をぼんやりと追っている。
 分からないまま、あの日の強い目を時折思い出しながら、夏休みに入り。サッカーにまみれる日々の中、徐々に吉倉の存在は消えて行った。

* * *

 二度目に彼女を意識したのは、夏休み明け。それはサッカー部内で小さな噂が起きていたからだった。
 曰く、『空き教室でピアノを弾いている女子が、結構可愛い』とか。
 グラウンドに一番近い特別棟、その一階の空き教室。そこから時々、ピアノの音がする。幽霊か何かか!?と思ったサッカー部の奴が一度休憩中に見に行ったら、一人の女子生徒がピアノを弾いていたらしい。
「一生懸命弾いててさー、その横顔が結構可愛いんだよー。何かこう、小柄でなぁ?抱き締めたくなっちゃう感じー。あれだな、時代は癒し系だな!」
 部活が終わった後、三年から順に部室で着替える。一年生は一番最後。二十人以上の男子が毎日汗だくになって着替える部室は、異様に男臭い。さっさと出て行こう、と俺はYシャツのボタンを留める。その俺の隣で、上半身裸で抱き締める仕草をして、馬鹿笑いをする友達。囃し立てる周りの奴も含め、練習後なのにこいつら、こういう時は随分元気だと、ぼんやり考えていた。
「何、その子何年?もちろん調べてあんだよな?」
「もち!えっとな、四組のー、吉倉美哉ちゃん!」
 ――その言葉を、聞くまでは。
「はぁ!?お前、四組って寛人と同じクラスじゃん!」
「え……?あぁぁ、そうだー!寛人の毒牙にかかってる危険が高いー!」
「……なんだそれ」
 頭を抱えて騒ぎ立てた奴の頭を殴ると、大げさなリアクションと共に、睨みつけられた。
「お前な、俺らの気持ちも考えろよ!クラスのちょっと可愛い子に『アドレス教えてもらってもいい?』って聞かれていそいそと携帯取り出そうとしたら『洒井くんの』って満面の笑みで言われたんだぞ!めっちゃショックなんだぞ!どこがいいんだこんなムッツリ!」
「誰がムッツリだ」
 女子の声真似つきで言う男に、もう一発拳を叩きこむと、ベンチに倒れ込んだ。つーかお前か。いきなり見知らぬ女子からすごい数のメールが来て不快になったことを思い出す。あの時はすぐにアドレスを変えたから良かったものの。
 て、それどころじゃなくて。
「つか、ピアノ」
「は?」
「ピアノ弾いてるの、……本当に吉倉、なのか?」
 初めて、彼女の名前を口にする。途端、忘れたと思った感情が、不意に胸を過ぎった。
 夏の日射しを浴びながら、前を見つめた彼女が。
「マジだよ。え、つーか何それ、寛人が女子の名前覚えてるとかありえないんだけどー!」
「クラスメイトだ、普通だろ」
「嘘だ!絶対嘘だ!何もなかった女子を寛人が覚えてるはずがない!だって川崎ちゃんの名前も知らなかったじゃん!」
 もう手遅れだったか!と嘆く友達と、他の連中は諦めろーと笑う。そいつらを見ながら、俺はため息を吐いてバッグを担ぎ、さっさと部室から出た。
 外の空気は、どこか蒸し暑い。九月になったからと言ってすぐに秋の涼しさになる訳でもない。早く家に帰ってシャワーを浴びるか、と思いゆっくり歩を進めた。
 ――吉倉。
 あの時音楽の先生と話していたのは、ピアノの話だったのだろうか。多分、そうだ。だけどそれが分かったから、何だと言うのか。俺には何の関係もない話だと言うのに。
 自分でも、訳が分からない。どうして吉倉が気になるのか、その名前を覚えているのか。さっきとっさに、「普通だ」と言った。本当は、俺は吉倉以外の女子は二三人、席が前後だとか、用事があってよく話しかけられる奴しか覚えていない。関わりも無ければ席も遠い、吉倉の名前を覚えているなんて、自分だってありえないと思う。正直、用事もなくしつこく話しかけてくる女子や、メールを送って来る女子、告白してきた相手ですらほとんど覚えていないのに。
 だけど、吉倉だけは。名前もその微笑みも、瞳も。何もかもが、あっさりと蘇るのだ。
「……」
 これ以上、その理由を考えるのは何だか危ない気がして。頭を振って、全てを振り払った。

 数日後の休憩時間。水道場に向かう途中、ピアノの音がした。ところどころ音はずれで、なのに柔らかくて。一緒に歩いていた連中から一歩離れ、走る。根拠はない。けれど、――その音を奏でているのが吉倉だという、予感があった。
 奴が言っていたように特別棟に向かうと、一つだけ、グラウンドに面する窓が開いて、ちらちらと白いカーテンが風に吹かれて舞う。やたらと目につくその白さに目を細めながら、導かれるように近付いて行く。
 教室の中から、ピアノの音が途切れ途切れで流れる。防音室じゃないから、音は駄々漏れで。その代わり、あまり綺麗には響かない。
 見つからないように、一定の距離を取りながら教室を覗く。カーテンに邪魔されて、中の様子がいまいち分からない。もう少し距離を詰めてみるか、と思い近付いていく。その瞬間。強い、風が吹き抜けて。
「……っ」
 カーテンが窓の外に大きく広がり、ガラス越しに、その横顔が覗く。肩までの黒髪を跳ねさせて、セーラー服の裾を揺らして。彼女は一生懸命、指を運んでいた。
 眉を寄せた真剣なその横顔を一筋、透明な汗が流れていくのが見える。それが白い首筋に伝うのをぼんやりと追いながら、思わず唾を飲みこんでいた。そんな自分に気付いて、思わず後ずさる。砂利を踏んで音を立ててしまったので気付かれたか、と焦ったけれど、彼女の顔は動かない。目の前の白黒の楽譜を追いかけて、脇目もふらずに、弾き続ける。
 それに、安堵したのに。
(馬鹿か)
 ――その瞳に、こちらを映してほしい、なんて。
 矛盾する自分に、呆れる。けれど確かに、思ってしまったのだ。
 二重の大きな瞳に、真っ直ぐこちらを見つめて欲しい、と。他の何でもなく、俺だけを。
『抱き締めたくなっちゃう感じー』
 細い肩を、白い腕を見つめながら。友達の台詞が、脳裏を過ぎる。
「……馬鹿、だな」
 それに同意する、だなんて。絶対にあり得ないのに。 


 

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