29. 〜discord〜
美哉と付き合いだしたは良いが、最初の二カ月はプロ入りしたばかりで忙しく、なかなか会えなくて。とにかく声だけでも、と思って毎晩電話した。遠慮がちに体調を尋ねてきた後、今日のことをぽつぽつと話す。それだけでも十分楽しかったけれど、ある日何となく、好きだと言うようにねだってみた。もちろん美哉の気持ちを疑ったりはしないけれど、頑張れる活力は一つでも多く欲しくて。美哉は戸惑って声をあげたけれど、しばらく黙ったままでいると、躊躇いながらも。
「そ、その。……好き、だよ……?」
電話の向こうで真っ赤になる彼女を、簡単に想像出来る。その、震えた小さな声。それだけで、俺はものすごく満たされた。活力の一つなんて、とんでもない。これだけで俺は、何年だって幸せに生きていける気がする。
今まで、言葉というものをそんなに重視していなかったけれど。それは大きな間違いだ。もちろん言葉が全てではない。だけど、好きな相手からもらう言葉というのは、何だって、何度だって嬉しい。
それ以来、美哉と会う度、電話する度に好きだと言ってほしい、とねだった。いつでも恥じらいながら答えるその声が、欲しくて。
会う度、美哉に嵌まっていく。笑っていても、赤くなっていても、うたた寝していても。何をしても可愛くて仕方がなくて、色んな表情を見たいが為に、ついついからかったりいじめてしまう。
俺の部屋に初めて入れた時は、緊張でがちがちになっている姿が可愛くてついついキスしてしまった。正直そのまま抱きたい気持ちもあったけれど、美哉だけじゃなくて、俺も緊張しているから。ずっと見つめていた彼女が腕の中にいるだけで実は結構やばいのに、その身体に触れるとなったら、心臓が壊れそうな気もする。気遣うふりをしながら、俺も結構ぎりぎりで。だけど触れる唇は、いつだって誘うように甘い。
――好きだ。
名前を呼びながら、いつだって、そんなことばかり考えてる。どうしようもないくらい、俺の中は美哉で一杯だから。
* * *
それは付き合って半年のこと。
前の週、試合中に雨が降ってきた。もちろん体調を崩すことを危惧して、すぐに身体を拭いてちゃんと湯船に浸かったんだが。
「……風邪か」
ごほ、と小さく咳をしながら額に手を当てる。熱い。関節も痛いしだるい。一人暮らしの部屋に体温計なんてないから、正確な熱など分からない。だけど冷房をつけているのに背中に汗をかいているし、間違いないだろう。とにかくチームの方に練習に行けない旨を連絡して、もうひと眠りすることにした。
次に起きた時、すでに十時を回っていた。腹は空かないが、食べて薬を飲まなければ体調はいつまでだって良くならない。とりあえず起き上がろうと、ベッドから踏み出したものの。
―ベシャッ
タオルケットに足を取られ、床に顔をぶつける。打ちつけた鼻や肩や額やらの痛みを堪えながら、大きくため息を吐いた。それすらも、熱い。一人で馬鹿やってる自分が虚しくて、そして、寂しくて。
――会いたい。
内心ぽつりと呟いたのは、割と切実な願いだった。
脳裏に描くのは、優しい微笑みの彼女だけ。最後に会ったのは、多分、一週間以上前。だからかもしれない。こんなに切望してしまうのは。
もう一度ため息を吐いてから身体を起こし、ベッドに背中を預ける。それだけでも息が上がったが、何とか首を動かして、枕元に置いてある携帯をじっと眺めた。
……今電話してもきっと出ないだろう、と分かっている。多分、授業中のはずだ。
だけどそれでも、声が聞きたいという衝動が抑えきれない。いつだってそうだ。美哉の側にいると、俺は我儘になる。自分の欲が堪えられなくて。
迷いながら、発信履歴にいくつも連なるその名前を選択して、発信ボタンを押す。声を。声を聞くだけで、構わない。それだけで良いから、欲しいと。本当に、そう思ったのに。
『もしもし、寛人?』
一度声を聞くと、顔を見たくてたまらなくなる。風邪がうつるかもしれないのに、一緒にいたくて。咳をしてしまった俺に、すぐ気付いてくれるから。本当に心配そうに、聞いてくれるから。
「悪い、美哉、今日暇なら来てくれないか……?」
零すつもりのなかった本心が、口から出てしまった。
『全然大丈夫だよっ。すぐ行くね』
それにまた美哉は、何のためらいもなく返事をする。
こういう時。どうしようもないくらい、自分は愛されているのだと実感出来る。慌ただしく電話が切られても、寂しい気分にはならない。これからここに、美哉が来てくれるのだから。ツーツー、と流れる音に小さく笑みながら電話を切り、ベッドに肘をついて、ゆっくり身体を起こした。
「……っ」
最初は、膝から力が入らずに崩れ落ちそうになってしまう。だけど何とか腕に力を込めて踏ん張り、壁に身体を預けながら、一歩ずつ歩いて行った。
美哉が来る時まで、起きていられるか分からない。もし寝ていたら、彼女を外で待たせることになる。だから、家の鍵は開けておく。ずり、ずり、と一歩ずつ這うように進み、ようやく玄関に辿り着いた時にはTシャツが汗でべっとりと背中に張り付いていた。それに顔を顰めながらも、鍵をしっかりと開けておき、また時間を掛けて部屋に戻る。
勢い良くベッドに倒れ込みながら、荒く呼吸を繰り返す。それが徐々にゆっくりになって来る頃、カーテンの隙間から覗く外の天候が良くないことに気付いた。ガラスにばちばちとぶつかる雨の音に、強い風。そう言えば、昨日ニュースで台風が来ると言っていた、ような。
「……やば」
こんな日に美哉に来てくれと頼むなんて、本当にしくじった。もしかしたら学校も、台風で休みになったのかもしれない。
申し訳ない気持ちが半分、それから――こんな日なのに、来ると即答してくれた美哉の気持ちが、嬉しいのが半分。
多分、来る途中に濡れてしまうだろう。そうしたら美哉も風邪を引いてしまう。タオルを用意して、それから風呂も沸かしておこう。台風が帰る時まで通り過ぎなければ、泊まってもらって。
ぼんやりとそんなことを考えながらも、意識がずるずると闇に引き込まれる。
まずい。
寝る前に、やらなくちゃいけないことがあるのに。
だけど動いたせいなのか、もう身体が重くて、眠くて。その内俺は抗うことも忘れて、目を閉じていた。
「……ん」
――誰だ……?
不意に息苦しさを感じて、俺の意識はゆっくりと浮上した。
うっすらと目を開けると、暗い室内で、誰かが俺に覆いかぶさっているのが分かる。頬をくすぐる長い髪、絶え間なく降る口付け。
――美哉?
今何時なのかは分からない。もしかしたら長い時間寝入っていて、その間に来たのかもしれない。
考えている間も、口付けは続く。時折、胸元や肩をなぞる指先に肌が粟立ち、押しつけられる自分とは違った柔らかな肢体に意識が奪われる。
軽い音を立てながら、何度も重なり、離れて。彼女から仕掛けられるそれに、徐々に熱とは違った意味で、身体が熱くなってくる。
会えない間は、美哉とこんな風に触れあうことも叶わなかった。何度も夢に見た。その微笑みを、柔らかさを、口付けを。今すぐ会いに行きたい衝動を堪える夜も、何度か続いた。
それがこんな風に、美哉から触れてくれるのなら――俺はもう、止められない。
口付ける彼女の頭を強く引き寄せ、無防備に開いた唇に舌を割りこませる。まだ何度かしたことのない深い口付けに、その身体が緊張のためか、揺れていることが分かった。それでも止めずにいると、身を預けて来る。受け入れられていることにほっとした。
離さなければ、風邪がうつってしまうかもしれない。それは良くない。だけど、ぼんやりする意識では理性よりも本能が勝る。
その内、彼女の方からも舌を絡めてくれるようになった。驚きつつも、嬉しく感じる。けれど鼻が詰まっているから、これでは息が出来ない。一旦止めよう、という意味で彼女の唇を舐めてみせる。
薬用リップ以外何もつけない彼女の唇は、いつだって滑らかで。それを味わうのも、なかなか楽しい。
なのに。
「……!?」
押さえつけていたその頭を、引き離すために髪を引っ張る。
「いっ」
耳に届くその声に、一気に熱が冷めた。
離れて初めて、顔がはっきりと見える。黒い長髪、それは一緒だけど。つり上がった目元、白すぎる肌、そして、唇には剥げた赤。
――美哉じゃない
「や、もう……酷いことしないでよ。痛いでしょ?」
くすくすと笑いながら、シャツのボタンを一つずつ外す見知らぬ女。隙間から見える下着や胸を見せつけるように俺に向かって屈みこみながら、次に俺のTシャツの下から手を入れてきた。
尖った爪が、素肌をなぞるのに、さっきとは違う意味でぞくりとした。
気持ち悪くて。
「離せ」
「照れなくてもいいのよ?」
「離せっ……」
触れられた場所から、腐っていくような感覚。耳元で囁かれたら吐き気を覚えて、どうしようもない。逃れても執拗に追いかける指に苛々して、起き上がると同時に抑え込む。
……つもりが、首に腕を回されて、そのまま床に転がった。
大きな音を立てて、二人倒れ込む。その間も離れない腕にいらつきを覚え、強く振り払った後、密着した身体を離すために床に両手をつく。
「寛人ったら、乱暴なんだから」
「黙れ」
俺の下でにやにやとする女。名前を呼ばれることすら、不快で仕方がない。その眼には、僅かに浮かぶ狂気の色。
こいつ、正気じゃない。
そう判断し、まともに話すことを諦める。とりあえず離れようと、腕に力を込めた。その時。
「寛人っ」
ばんっと大きな音を立てて開かれる、寝室の扉。焦ったような、それでも柔らかいその声。
それを何よりも、待ち望んでいたのに。
「美哉……」
俺は呆然と、彼女の名前を呼んだ。
「……なぁに、あんた」
空気も読まず口を開き、美哉を睨みつける女。懲りずにまた腕に触れてくる。だけど俺は、動けなかった。
暗い室内。
肌蹴た女の服。
傍から見れば、俺が、女を押し倒している格好。
そのどれもが、浮気現場のようで。
目を見開いた美哉が、ゆっくりと一歩、後ずさる。余りの出来事にぼうっとしていたけれど立ち上がり、美哉に向かって手を伸ばす。
今逃げられてしまえば、多分、もう弁解のチャンスはない。だから重たい身体を引きずりながら、彼女に向かって歩き出す。
だけど美哉は、何も言わないで俺に背を向けた。
「美哉っ!」
大声でその名を呼んでも振り返らない。真っ直ぐに玄関を目指す、その小さな背中。走ろうとしても身体のだるさは変わらず、二三歩でその場にうずくまった。激しく息を荒げながら、開け放たれた玄関を見つめて。
(美哉)
何を言ったって、言い訳にしかならないのは分かっている。間違えたとはいえ、俺は女の口付けを受け入れたうえ、自分から仕掛けたのだから。そもそも、間違えること自体、あり得ないのに。
(……美哉)
だけど何度もリフレインする、一瞬見せた、泣きそうな顔。涙を堪えて、じっと我慢する。その顔には、俺に対する非難も、女に対する怒りも、何もなくて。だから尚更、ぞっとした。
このまま美哉が、俺の前から消えてしまいそうだったから。
「……!」
考えたくもない未来を想像して、慌てて部屋に戻り、携帯を鳴らす。横で女が喚くが、今は構っている暇もない。早く、連絡を取らなければ。早く、美哉を捕まえなければ。
早く、早く、早く。
言い訳にしかならなくても、話さなければいけない。怒ってもらわなければ、いけない。このまま何もなかったことにされれば、きっと俺と美哉に、未来はない。
――だけど、焦る俺に反して電話は何度掛けても繋がることはなく。
それから三日後。メールも届かず、電話も通じなくなって、俺は完全に彼女に切られたことを悟った。
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