知ってたよ

お前の気持ちなんて

だけど俺は、――それをぶっ壊したかった


ウソツキの本音(1)


―プルルルルル……プルルルルル……
 何度目かのコール音の後、携帯からは機械的な音声が、いつも通り流れる。
「……ち、」
 
もう何度目なのか、分からない。このやり取りも、俺の舌打ちも。だけどいつまで経っても、この苛立ちは消えないのだろう。――自分から突き放しておいて、何を馬鹿なことを、と思わないでもないが。
 乱暴に通話を切り、そのまま電源も落とす。どうせ、あいつに電話をかける時しか使っていなかった。正直、今更なくても問題ない。
 ベッドの上に、音を立てて寝転がる。瞬間、香るはずも無い、あいつの匂いがした気がして。知らず知らず、唾を飲み込んでいた。
 窓ガラスを叩く大粒の雨が、ゆっくり、俺と世界を切り離していく。
 
――あれからもう、二ヵ月半。春休みが終わって大学が始まって、それでも果菜は、俺から逃げた。まるで、俺達の関係は、無かったものだとするように。

* * *

 幼馴染み、と言うより、腐れ縁に近いかもしれない。物心つく前から、ずっと側にいた、一人の女。それが、当時隣の家に住んでいた、果菜だ。保育園も一緒、小学校も一緒、中学校も一緒だった。昔から仕事が忙しい両親で、深夜過ぎでも帰ってこれないことが多かった人だった。だから、果菜の家に預けられることが多々あって。必然的に、俺と果菜は学校でもよく一緒にいるようになった。
 小さいころ、明るく友達の真ん中にいた果菜はよく、俺の手を引いて、笑った。俺が一人にならないよう、守っていた。というのも、当時の俺は身体の線が細く、色も白くて、ついでに泣き虫で。クラスの悪戯好きな男子からすると、恰好の標的だったから。そんな奴等から引き離して、果菜は俺の手を握った。その温もりは、小さいながら、当時の俺の全てだと言っても、差し支えないくらい。何より、大切なもので。
「かなめには、かながついてるよ。だからね、こわくないの。さみしく、ないの」
 
両親が帰って来なくて、果菜と同じベッドで寂しがって泣く俺に、言い聞かせるように。果菜は俺の手を握り、何十回もそんな言葉を繰り返した。その温もりがあれば、俺が泣き止むとあいつは知っていたから。その言葉を言えば、俺が眠ると、あいつは知っていたから。それはいっそ、残酷な、優しさ。

 中学に入って。小学校からやってたバスケの恩恵か、いきなり身長が伸び出した。そうしたら、クラスの女子にやたら話し掛けられるようになって。でも、俺は果菜以外の女に興味無かったから。上手い具合にそれを交わして、逃げてた。
 だって、果菜がいれば良かった。果菜が側で笑って、俺の手を握ってくれれば、俺はそれで良かった。それが俺の幸せなんだ、ってちゃんと知ってたから。
 ただ、思春期の男女ほど面倒くさいものはない、と思う。部活の連中やクラスの友達に、よく追及された。
「お前、あいつと仲いいけど付き合ってんの?」
 
その言葉を言われる度、否定した。だけど、それでも尚、食らいついて来る。俺に告白してきた女子なんかにも、よく「あの子と付き合ってるから?」と尋ねられた。
 なんで、一緒にいるのに理由が必要なんだよ?俺と果菜は幼馴染みで、ずっと一緒にいた。なのに何でそれに他人が、いちいち突っ込んでくるんだよ。物分かりの悪い周りの奴ら全員に、苛々した。放っておいてくれ、そう思った。そっと横に二人並ぶ、静かな空間。それが俺の心を満たす、たった一つのものだから。

 だけど二年の秋のある日、果菜のことでずっと突っ込んできた部活の友達に、言われた。
「じゃあ、お前本当に、あいつと付き合ってる訳じゃないんだよな?」
「だからそう言ってるだろ?」
 
しつこく続けられた質疑に、うんざりしながら答える。
 つーか、早く果菜を迎えに行きたいんだけど。
 中学でもバスケ部に入った俺と、吹奏楽部に入った果菜。果菜のおばさんに言われて、登下校を一緒にしてる。と言っても、登校は朝練があってあまり一緒に行けないけど。でも、下校は欠かさず一緒にしてる。それも多分、こいつらを騒がせてる原因なのだとは知ってるけど。だからと言って、俺の一番好きな時間を無くすほどの理由には、ならない。
 ぼんやりしている内に窓から聞こえてきた、演奏の音。ああ、果菜が自主練してるのかもしれない。そう思うと、途端に胸が温かくなった、のに。
「じゃ、じゃあっ。俺のこと、紹介しといてくれないかっ?」
 
声をひっくり返らせて、真っ赤になって言われたその台詞に、俺は固まった。
 紹介?は?
 つーかそれ、まさか。
「果菜に、お前のことを、か?」
「あ、ああ」
 
前からずっと、可愛いって思ってたんだ、なんてモゴモゴ口ごもりながら呟く、友達。だけど俺は、その反応が、全然全く気に入らなくて。気が付けば。
「――ぜっってーやだっ」
 
吐き捨てるようにそれを言って、部室を飛び出した。
 ふざけんな
 ふざけんな
 何が「可愛いと思ってた」だよ。俺の方がずーっと前から、知ってた。なのに何でお前まで、んなこと言い出すんだよ。ムカムカする気持ちの理由も分からないまま、下駄箱に靴を取りに行く、と。
「あ、要ー」
 ……後ろから掛けられる、気の抜けるような、明るい声。振り返ると、階段を小走りで降りて来る、果菜の姿があった。ひらひらとセーラー服の裾を揺らして走るその姿に、苦笑が漏れる。
 なんか、転びそう。だけど俺の心配に反して、果菜は無事、俺の横に並んだ。下駄箱から靴を取り出し、履いて。果菜も歩き出せる準備が出来たのを確認して、歩み始めた。キンと冷えた空気が、肌を刺す。もう、冬。そんな俺の心を、まるで読んだかのように。
「もう冬だねー」
 
果菜がこっそりと、呟いた。頷きながら、横をちょこまかと歩く果菜のつむじを、見下ろす。昔は、一緒くらいの身長だったのに。むしろ、わずかに果菜の方が目線が高かったくらい。なのに今は、こいつはこんなに小さくて。あの時とは逆に、俺がこいつを守らなきゃ、いけない。
『俺のこと、紹介しといてくれないかっ』
 ――
あんな奴に、渡せない。直接果菜に近付けない奴になんて、絶対。
 強くそう思って、ぶらぶら揺れていた果菜の手を、半ば強引に、握った。「ぇ、」戸惑ったような声に、視線を下ろす。運動後のせいであっつい俺の手に比べて、果菜の手は、冷たい。徐々に俺の温度に馴染むその感覚に満足していた俺からすると、果菜のその反応が、不思議で。首を傾げると、慌てて俺を見上げた、果菜。街灯に照らされたその顔は、――真っ赤で。
「!?」
 
俺は思わず、息を呑む。
 何で。いつから、こいつこんなに、可愛くなった?違う、元から可愛いんだけど、そうじゃなくて。……いつからこいつは、こんな、『女』の顔に、なったんだろう。
 改めて見てみれば、果菜は俺と、全然違った。色素の薄い白い肌、濡れたようなしっとりした黒髪、細い肩、大きな茶色がかった瞳、小さな掌。今まで、知っていたはず、なのに。俺は、今、初めて気付いたんだ。
 
果菜が、女、なんだって。
 ……
果菜は、こんなにも可愛いんだ、って。
 
正直、男なら誰でも好きになるんじゃねぇの?って位、真っ赤な顔で俺を見てる果菜は、可愛かった。思わず、抱き締めたくなる、くらい。
 だけどそれは、ぐっと堪えた。だっていきなり抱き締めたら、果菜も驚くだろうし。万が一にでも嫌がられたら、落ち込むどころじゃないし。
 とりあえず、握っていた手に、力を込める。ビクリ、と肩を揺らした果菜の目を、覗き込んだ。
「……何、果菜、嫌か?これ、」
 
言いながら、軽く手を揺らす。嫌だって言われても、離す気は、無かったけど。真っ赤なまま、果菜はぶんぶんっと勢いよく、首を振った。その反応に、満足した俺は、軽く笑い。鼻歌でも歌えそうな上機嫌ぶりで、家に帰るまで、ずっと果菜の手を握っていた。意味も分からないまま、ただ漠然と。この手は俺のもんだ、って。そう思った。
 そんな、俺と果菜のささやかで、だけど、幸せな日々の終わりは、唐突だった。

「引っ越し?」
「そう、」
 
中二の冬、夕飯の時、母さんにいきなりそんなことを言われた。
「この間、お父さんが単身赴任で九州行くって話は、したわよね?」
「ああ」
「そうなると、車出せなくなるから、おばあちゃんにあまり顔出せなくなるのよ」
 
呆然とした俺に、ためらいがちの視線を送りながら、ポツリポツリと話し出す、母さん。
 父さんの単身赴任が決まったのは、先月のことだった。異動が決まった時、父さんは誰に相談するでもなく、単身赴任を希望したと言う。そういうところは、かなり理解のある人だ。俺の受験も近いし、母さんも今の職場を楽しんでるようだから、と笑って言っていた。だから、まぁ多少は寂しくなるけど、今まで通りの生活が続くと思っていたのに。
「おばあちゃん、おじいちゃんが亡くなってから、元気ないし。出来るだけ、側にいてあげたいのよ」
 ……
うちの母さんは、幼いころに自分の母さんを亡くしたらしい。だからか、母さんは小さい頃から母親というものに憧れていたらしく。父さんと結婚して以来、ばあちゃんをすごく慕っている。俺自身、とっくに八十超えてるのに若々しく、おおらかなばあちゃんのことは大好きだ。だけどそんなばあちゃんも、昨年、旦那であるじいちゃんを亡くすと、元気がなくなった。最近は部活が忙しくて会いにいけてないけど、電話の声を聞く限り、かなり意気消沈してるみたいだ。そして、そんなばあちゃんを心配して、週末によく母さんは、父さんに車で送ってもらってばあちゃん家を訪ねていた。
「隣街にね、知り合いが良い家があるよ、って教えてくれたの。あっちの方だと、駅も大きいし電車が色々通ってるでしょう?おばあちゃんの家まで一本で行けるし、頑張れば自転車でも通えそうなのよ」
 
それに近くにも中学あるし、そこ、バスケ部強いんだって。そう言って母さんがあげた中学の名前は、確かに俺もよく知ってる学校だった。数回練習試合をしたけど、県でもベスト八には入る強豪校だ。
 ――でも、ここには。果菜がいる、のに。
 中学生からすれば、隣街なんてものすごく遠くに感じて。離れることが、すごく恐かった。ずっとあの笑顔を、見ていたかったから。
 でも、そんなワガママ。それは、卑怯だ。母さんだって、父さんだって、みんな色々考えて決めたんだ。養ってもらえる俺は、何も言えなくて。黙って頷いた。
 それからしばらくは、荷造りに忙しかった。父さんの引っ越しも近づいてたし、出来れば三学期開始と一緒に新しい学校に行きたかったから。そのせいで、チームメイトやクラスメイト、……果菜に言うのもぎりぎりになってしまった。

 二学期の終業式。クラスで色紙やら花束をもらい、部活でも軽く挨拶をした。
 次に会うときは、ライバルになる。でも、笑って送り出してくれた奴らの気持ちが嬉しかった。
 そして、果菜は――。

「……これ」
「あ、うん、えっとね?要には、書いたことなかったかなぁって」
 
ほんの少し、瞳を潤ませながら目の前の果菜は必死で笑う。
 ……俺の分を吸い取ったように、年を取るごとに泣き虫になる。分かりやすいその態度に苦笑しながら、自分の手の中にあるそれ――手紙を見る。淡い青色と、四隅に小さく花が描かれている。その中心には、見慣れた丸っこい字で『要へ』と書いてあった。意外に分厚いそれに、苦笑してしまう。
 ――どんな顔をして、これを書いたのか。
 泣き虫なくせに、果菜は俺が引っ越しを告げた日から、一度も泣こうとしなかった。多分それで、自分は大丈夫、とアピールしたかったんだろう。……無駄な努力だろう、とは思わないでもないが。
 だけどそれを口にするほど、俺は意地悪になりきれず。あいまいに笑って見ないふりをした。「さんきゅ、」と言いながらバッグに手紙を入れると、横の果菜はぐっと息を呑んだ。
 今日で、最後だ。果菜と一緒に帰るの。いつかここに戻ってくるかもしれないけど、高校や大学まで一緒になれるとは思わない。だから今日は、本当に、最後。はぁ、と大きくため息を漏らせば、果菜は黙って俯いた。
「……」
「……」
 
暗い道。吐き出す白い息。ぼろい、学校近くの公衆電話。隣を歩く彼女の存在も、こまこましたその歩みも。全部がいつも通りだから。明日から本当にこれを失うのか、想像がつかなかった。当たり前みたいな存在だから。――当たり前みたいに、大事な存在だから。
 俺はただ、その頼りなく揺れるつむじを撫でた。びくりとした後、顔を上げるその瞳には、涙が溜まっていて。苦笑して、俺の腕を、果菜の背中に回す。小さな身体を思うがままに抱きしめると、されるがままだった果菜は、耳を真っ赤に染めていた。その様子が、可愛くて頬が緩んでしまう。だらしない笑みを浮かべたまま、無言の果菜に囁きかけた。
「果菜」
「……ん」
「泣くなよ」
「……泣いてない、もん」
 
馬鹿。分かってるんだぞ、俺。ばればれなんだよ、お前。
 なのに強情になる果菜が愛おしく感じるのも、きっと事実で。あーはいはい、と軽く流して腕に力をこめて、そのさらさらの髪を梳いた。
「またな。会いに、くるから」
「……ん」
「俺も寂しい。果菜だけじゃ、ないから」
「……」
「だから、我慢すんなよ」
 
ここに留まりたい理由の大部分――いや、全部が果菜で占められたくらい。俺にとって果菜の存在は、でかいけど。でも、いわゆる未成年の俺らは親に反抗なんてできないから。だからここで、しばらくの、お別れ。
 それでも。一時でも、果菜が寂しがるのを放ってなんて、おけないから。
 ――今ここで、全部吐き出しちゃよ。俺がいる内に。他の誰でもなく、俺だけに、吐き出せよ。その寂しさ。
 そんな俺の気持ちが伝わったのか。おずおずと、果菜の腕が、俺の背中に回されて。その後は、子供のようにぴーぴー泣くから。俺は、笑ってしまった。

 家に帰ってからすぐ読んだ、果菜からの手紙。内容は、当たり障りのないものだった。次会うときまでに泣き虫直すね、とか。要だったらみんなと仲良くなれるよ、とか。ところどころ文字が震えてて、笑ってしまうくらい。最後にメアドが載ってたから、すぐにメールして。距離はあっても、すぐ詰められるものだった。
 ――まだ、この時は。


  

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