ウソツキの君(2)


 息が切れて、脇腹が痛くなる程必死に走った。特に今日はヒールだったから、途中膝がガクガクし始めたくらいだ。
 ともかく、着いた。昼にも来た、大きな一軒家を見上げて恐る恐る、ドアホンのボタンを押す。あたしのバクバクする心臓を嘲るように、チャイムは妙に間延びした音を奏でた。
「……」
 
だけど、いつまで経っても。誰か姿を見せる訳でも無いし、応答する訳でも無い。まさか、また寝てんじゃないでしょうね?ありえないとは言えない想像にげんなりした。もう二、三度ドアホンを鳴らしてみるけど、やはり人気の無い家の中を響いてるだけのようだ。
 嘘でしょー……。
 一気に身体中を襲う疲れを感じながら、ポケットの中の携帯を取り出して、要にリダイヤルした。とりあえず、寝ぼけて呼び出されたにしても、一回話つけないと、ね。出ない可能性を十分感じながら、三回目のコール音が耳を打った時。
『何』
「え?」
 
余りにあっさり出られた上、とても今まで寝てたとは思えない、ハッキリした言葉遣い。驚くあたしと裏腹に、要はため息を零した。
『お前さ、着いたんならさっさと入って来いよ。ピンポンピンポンうるせぇ』
「それは要が出ないのが悪いんでしょ!!」
『いいからさっさと来いって、鍵開いてるから』
 
そのまま、また言いたいだけ言って、勝手に電話を切った要に大きくため息を吐く。だから本当にあんた、何様のつもりよ。とりあえず、要の言葉の通り、あたしはその家の門をくぐった。

「要、入ったよー?」
 
玄関から大声で叫ぶと、上がって来い、なんて偉そうに言われる。渋々、小声でお邪魔しますと声を掛けて玄関脇にある階段を昇った。この家に要しかいないのは、最初から気付いていたけど。要のお父さんは確か単身赴任で九州の方だし、お母さんも働いてる。だからこの家にあたしが来て、誰かに遭遇したことは二、三度しか無い。そんなことを考えながら、二階の一番奥の部屋をノックして、開けた。
「入るよー」
「おう」
 
昼の光景とほとんど変わらない、ベッドの中にいた要はあたしの声に顔を上げた。
 ていうかさ。
「何あんた。人呼び出しといてまだ寝てた訳?」
「寝てねぇだろ」
……寝癖くらい直してからそういうこと言ってよ」
 
不意に襲う頭痛にこめかみを押さえながら、まじまじと要を見た。綺麗な髪はところどころ跳ねてるし、シーツの寄った痕は鮮明に残ってるし、服はスウェットだし。
 こいつ、さては今日一回も布団から出てないな?
「ご飯は?食べた?」
「まだ」
「まだってね、もう六時だよ?朝も昼も食べてないじゃん」
「うっせぇな、腹減らなかったんだよ」
「そんなんだから太らないのよ、要は」
 
まぁ、小学校のころから続けてるバスケのお陰で、細い割に筋肉は付いてるんだけどね。文句を零しながら、ベッドに近寄る。不機嫌そうに顔を歪めたまま起き上がり、胡座を掻く要に苦笑して、そのすぐ隣に座った。
 こういう時、あたしは自分が要の幼馴染みだって実感する。それは嬉しくもあり、そして、悲しい事実。こうやって男女関係が無く要の側にいる女はあたしだけだ。家に呼び出すのも、要にあれこれ文句を言えるのも。
 だけど、逆に。あたしは決して、彼女のポジションに立つことは出来ない。特別であっても、それ以上にはなれない。
 こんなの、違う。あたしが欲しいのは確かに要の特別だったけど、それ以上に、
――あたしは、要の特別な女の子になりたかった。
 
声に出来ない願いを飲み込んで、柔らかなその髪に触れる。猫っ毛のせいか、要は寝癖が付きやすい。ちょいちょい、と指で直してやると、素直にその髪は方向を変えた。
 ……これ位こいつも素直な性格になると嬉しいんだけど。
 寝癖を直す、なんて、ただの言い訳にしかならない。あたしがただ、要に触れたいから、お姉さんぶってこんなことするだけだ。黙ったまま、されるがままになってる要にもしキスしたら。ねぇ、あんたはどんな反応するのかな?
「要って、本当に髪柔らかいよね」
「普通だろ」
「普通じゃないよー、あたしもこれ位サラサラだったらなぁ」
 
ため息を吐きながら、自分の髪の毛を引っ張る。脱色も、パーマをかけたことすら無いのに、あたしの髪は痛んいる。一応ヘアパックとか、色々気を付けているけど。効果は一時的なもので、意味があるかと聞かれれば微妙なところだ。黙ったままあたしの言葉を聞いてた要は、
「っ、」
 
――不意にあたしの髪に指を通した。
 驚いて手を止めたあたしをジッと見据えながら、ポツリと言う。
「別に」
「、え」
「別に、そんなひどくもねぇだろ。十分、気持ちいい」
「なっ」
 
要の口から吐き出される言葉に、思わず赤面してしまう。こ、これ、本当に要なの?答えが分かりきってる質問なのに、思わず尋ねたくなった。だって、要があたしを褒めることなんて、滅多にない。

 
去年の夏休み、大学の仲良いメンバーで、花火大会に行った。要も一緒に行くって言うんで、あたしは張り切って浴衣を着ていったんだけど。我ながら、大人っぽく見えるんじゃないかなって思った。他の男の子とかは似合うって言ってくれたし。だけど。だけど、要は。
『全然似合わねぇだろ。お前ら眼おかしいんじゃね?』
 
――みんなの前でそれを言われて、あたしがどんなに惨めな気持ちになったか。
 あの時、浮かれて浴衣を着ていった自分も、そんな言葉を投げつける要も、恨めしくて仕様がなくなった。だから、もう浴衣なんて絶対着ないって決めたのに。

 
なのに、なんで今更。そんな風に、あたしに優しい言葉を投げかけるのか。今日の要は、本当に意味がわからない。でも、不思議に思う気持ち以上に、喜んでる自分を、自覚してしまって。
 ああ、あたし、本当に要が好きで、好きで仕様がないんだ。自分の胸に湧き起こるその感情は、幸せで、切ないほど甘くて、心拍数は上がるばかり、で。
 そんなあたしに気付いてるのかいないのか。要は、悪戯にあたしの髪に触れたまま。時折、頬を掠めるゴツゴツしたその掌に、胸がきゅうって苦しくなった。
「……な?果菜?」
「っ、な、何?」
 
優しい触れ方は気持ちいいのに、その指先に意識が集中して、息も、出来なくなる。だから要に呼びかけられたとき、すぐには反応できなかった。慌てて顔を上げてその瞳を見つめると、苦笑混じりの、優しい笑い方。久しく見ていなかったその笑顔に、どくり、と心臓が音を立てる。
 ――ああ、こいつ、あたしを殺す気なのかな。
 でも、今なら。本当に、殺されてしまいそうだと、思った。むしろ、殺されてしまいたい、とすら。
 だって、その微笑みは、反則だよ。

 何も言えないあたしの頬を、要はゆっくりと包んだ。小さいときと違う、『男』の手で、『女』として、あたしに触れるから。膝の上に置いていた拳を、思わずぎゅっと握りしめた。背中がゾクゾクするような、焦らされているような、甘ったるい、感触。そのまま要は、空いた親指で、あたしの唇を、なぞる。思わず吐息を漏らすと、要は片方の眉だけを器用に上げて、笑った。そのまま、グッと距離を詰められる。無意識に背中を仰け反らせるけど、先読みされたのか、要の左腕で、右肩を抱かれた。
 え、な、何この状況!?要の顔がこんな至近距離にあって、抱き締められて、……え、何で。
 だって、朝まで普通だったじゃない。ていうか、ほんのついさっきまで、いつも通り、だったのに。何で?何でいきなり、こんなことになってる、の!?
 混乱する頭じゃ、まともな思考はうかんできそうにもない。一人焦るあたしを尻目に、要は艶やかに微笑んで、更に距離を詰めてきた。正直、今にもベッドに押し倒されそうな体勢だ。
 ……だから何がどうなってこうなってるのよーーッ!!
「果菜は」
「っ、」
「キス、したこと、あんの?」
 
耳の奥で、バクバク心臓が鳴ってる音が響いて、かなりうるさい。だけど、自分の意志じゃ止めようもなかった。
 肩を抱いた手で、気紛れに耳の裏や首筋をくすぐられる。その度に、熱い息を吐き出すあたしを、要はじっと見ていた。
「ねぇ、」
「っん」
「あんの?」
 
答えられないのは、要が触れるから、なのに。焦れたように、あたしの耳朶を食むなんて、反則だ。じわりと触れるその熱が、どれだけあたしを侵しているか、知らないでしょう。耳元に吐き出される要の息だけで、あたしはこんなにも翻弄されるのか。これ以上は、心臓に負担が掛かりすぎる。唇を一度噛んでから、「っ、無い、無いよっ!!」必死で叫んだ。あたしの返事を聞いて一瞬動きを止めた要は、目尻を下げて、微笑んだ。
「ふーん」
「な、にっ」
「……じゃあ、」
 
そこで不意に言葉を切って、要はあたしの耳にそっと口付けて。

 ――俺が、果菜の“初めて”、もらっても、いいか?

 吐息ごと直接、送り込んできた。

 全身を震わすような衝撃に、あまりに蠱惑的なその響きに、あたしは、身体中の力を、抜いてしまう。要はもう一度あたしの耳にキスを落として、くたりとしたこの身体を、ベッドに完全に、横たえる。ちゅ、と響いたその音に、全身に、鳥肌が立った気がする。まるで風邪でも引いたんじゃないかってくらい、身体が熱い。
 要のせいだ。全部、全部。だったらこの熱も、あんたが冷ましてよ――。
 徐々に近付く要の熱っぽい瞳を、どこか他人事のように見つめていた。まるで、夢の中みたい。少なくとも、現実とは思えない。伏せられる睫毛の長さも、頬に感じるくすぐったい髪の毛の感触も、何もかも。ずっと望んでいたことが、現実になる瞬間。あたしは、何も考えられなかった。

 
ふわりと香るのは、要の香り。
 
布団の上に散らばったあたしの髪の毛を、要の指先が、優しく掬う。
 
ぎし、とスプリングが軋んだ。
 
お互いの熱すぎる熱を、分け合って。
 
唇が触れる、その瞬間。

「――好きだよ、果菜」

 確かに、聞こえたのに。

 柔らかい感触が、唇に触れて、しばらくしてもあたしは動けなかった。何故だか、頬を涙が伝って。
 ああ、こんなにあたしは要の言葉が欲しかったのか、って、思い知らされた。
 好きなんだ、こんなにも。他の誰かなんて、もう好きになれない。この世でただ一人、あたしが焦がれるのは、要、だけ。
 今更知った事実に、むしろ呆然とした。だけどそんなあたしを尻目に、要はさっさとベッドから起きあがってしまう。
「……?」
 
離れるその温もりが寂しくて、あたしも慌てて身を起こすけど、上手くいかない。ばたばたするあたしに、要は手を貸してくれた。
「あ、ありがと」
 
気恥ずかしくて、思わずどもりながらその手を掴み、起きあがる。
 ――だけどそこであたしは、夢の終わりに気付く。
 違和感を感じたのは、一瞬。その理由は、最初は分からなかったんだけど、よくよく考えれば、すぐに気づけた。
 要の目が、違う。
 冷たい、零度の瞳。あたしをまるで切り捨てるような、ぞくりとするほど冷たい色を湛えていて。
 言葉を失ったあたしに、要は皮肉げに微笑んだ。
「帰れば?」
「……え?」
「だから帰れば、って」
 
信じたく、ない。さっきのこと、嘘だったなんて。夢だったなんて。思いたく、ない。やっと届いたんだって、そう思ったのに。
「お前さ、今日何日か、知ってる?」
 
まるで悪戯を思いついた子供のように、無邪気に要は微笑む。
「四月一日、だよな」
 
その裏に見え隠れする刃が、あたしへと、ゆっくり、振り下ろされて。

「――エイプリルフールなんだけど。何マジになってるわけ?」

 
あたしの心は、悲鳴を上げた。

 ―ぱんっ
 乾いた、空気を裂く音が、暗い要の部屋に響く。頬を濡らす涙を、拭おうとは思わなかった。今は、そんなことより、目の前の男が、あたしには許せなくて。さっき、その温もりが触れた唇を、要を叩いた手で擦る。
「さいってーっ!!最低だよ……っ!!」
「……」
 
要は、何も言わない。黙って、俯いたまま。
 ずるいよ。卑怯だ。そうやってまた、あたしの気持ちを受け止めようともしない。こんなの、あんまりだ。こんな男、最低、だ。
「あたしの気持ち、知っててっ、こういう風に弄んで、楽しかったッ!?」
「……」
「っ好きにならなきゃよかった、要なんて……っ!!」
 
涙でぐちゃぐちゃな顔を乱暴に擦って、走り出す。要の部屋のドアを開け、階段を下りて、外へ出た。だけどあたしの涙はいつまでも止まらなくて、むしろ、どんどん溢れてきて。
 ――最低だ。あんなこと、されるなんて、思わなかった。どうして、身を任せちゃったんだろう。どうして、気付けなかったんだろう。




頭の中でぐるぐる回る悲しさとか、悔しさとか、色んなものがあたしを支配して。
だから、その時のあたしは、一番大事な見落としに、気付かなかった。
まるでいまにも、泣きそうな顔をしていた、要の表情に――。


  

inserted by FC2 system