ウソツキの本音(2)


 引っ越して次の日から、すぐに新しい学校の部活に参加した。微妙な時期の転校だったけど、バスケ部の奴らはみんな気さくで面白かった。だからすぐに慣れたし、部の何人かは同じクラスだったから、新学期からも順調だった。
 だけど、さすが強豪校か。練習はつらいし、家に帰れば飯食って寝るだけの生活だ。果菜に会えないまま、春が来て、夏が過ぎる。引退すれば、今度は受験だ。初めての受験は、部活をずっとやってた俺には結構きつかった。果菜も同じ立場だったから、受験が終わるまでお互い会うのはやめることにした。それは辛かったけど、だからこそ、勉強を頑張ったのも事実だ。春に会うとき、お互い情けない結果にならないように。約束した。そんな、柔らかな日々。

 壊したのは、一瞬だった。
 俺が自分で思ってた以上に、果菜に、依存していたから。
 ――俺が、弱かったから。

 親に無理矢理通わされた塾に、急いでいた、十一月。
 塾が終わるのは九時近いから腹が減る。なので一旦家に帰って飯を食ったんだけど、TVでやってたNBAの試合に予想以上に引き込まれた。はっと気付いたら、家を出なきゃいけない時間はとっくに過ぎていて。慌てて戸締まりをして、家を出た。

 あの時、近道なんかしなければ。ちゃんと時間通りに出てれば。俺は、果菜の側で、今でも笑ってられたんだろうか。

 家の近くの公園を抜けようとした、瞬間。
「……でも、辛いの。仕方がないって、分かってるのに」
 
かすかに、聞こえた声。その声に、妙に聞き覚えがあって。首を傾げながら、こっそりとその方角を追う。真っ暗な公園に、子供の姿はなく。ただ、ベンチにぽつんと二つの人影。その内の一つは―――。
「?」
 
電灯が点いた瞬間、照らされた、その横顔。遠目だけど、間違いない。――母さんだ。
 だけど、何で?確か母さん、今日は帰りは十時過ぎになるって言ってたのに。頭を混乱させた俺の目の前に映るのは、
「!!」
 
――見知らぬ男と、しっかり握られた手。
 真面目そうなその男は、随分若そうだ。どう見ても、母さんの友達とかそんなんじゃない。
 どうして。何でそんな男と一緒にいるんだよ、母さん。
 心で精一杯叫べても、唇は震えて、言葉が出てこない。マフラーを忘れた首筋がひんやりとして、背筋がゾクリとした。だけどそんな俺に、二人は気付かず。男は黙って、母さんの肩を抱いた。母さんは、何も言わない。ただ黙って、身体を預けてる。その光景に、頭が殴られたようだった。
 何で。何で、母さん、抵抗しないんだよ。
 そいつは、違うだろ。……父さんじゃ、ないじゃん!!
 二人がこんな暗い中、一緒にいること。手を握り、肩を抱き、親しげな素振りを見せること。
 
そして今。目の前の二人が、見つめ合い、徐々に顔を近付けていること。その理由も、その先も、何にも見たくなくて。俺はただ、その場から飛び出した。

 ――本当は、気付いてた。最近、二人が電話越しに喧嘩してるの。あまり、仲がいいとは言えない、こと。
 だけど俺は、そんなの二人に聞けなかった。
 怖かった。大好きな二人を、俺の手で失うことが。
 俺は、母親の寂しさとか、父親の仕事の状況とか、何も分からなくて。ただただ、幼い頃繋いだ手を離してしまうのが、怖かったん、だ。

 温もりが。温もりが、欲しい。柔らかく、包んで。側で、微笑んで。俺は、それだけで癒されるのに。
 頼むよ。一緒に、いろよ。
 助けてよ、


「果菜……」

 気付いたとき、俺は元の家の近くにいた。電車に乗った記憶も、降りた記憶もない。我ながらやばいんじゃないのか、と思って皮肉げに笑う。だけどそれも、仕方がないことだったと思う。俺の神経が細いか図太いかは知らないが、いきなりあんな光景を見て、平静でいられるはず、無かった。
 ああ、でも。今はそんなこと、どうでもいい。
 果菜。果菜に、会いたい。
 はぁっと息を零して、小走りに果菜の家に向かう。この時間だと、帰ってるだろうか。どうだろう。果菜も確か塾通ってるって言ってたし、そしたら駅前で待ってればいいか。考えながら急ぐ俺の足は、明らかに焦っていた。
 早く、会わなきゃ。早く、早くしないと……。
「……」
――だけどそんな俺の歩みは、角を曲がる直前で、ぴたりと止まる。
 果菜。久々に見たけど、相変わらず小さくて、可愛い。
 でも、違う。問題はそこじゃなくて。
「なんで、あいつがっ……」
 
その隣にいたのは、一年前。果菜に自分を紹介しろ、なんて。馬鹿なことを言ってた奴だった。そいつが今。果菜の隣で、果菜と楽しそうに、笑ってる。まるで、一年前までの、俺のように。
「……」
 
俺に気付かない二人は、果菜の家の前で、しばらく話していた。そして不意に、あいつが、果菜に手を伸ばす。
  どく り
 心臓が、嫌な音を立てる。
 目の前の光景が、あの瞬間に、戻ったように。時間が、止まるように。
 乱暴に果菜の肩を抱き寄せたあいつは、そっと、果菜に顔を近付けて。そして、果菜は――。
「!!」
 
瞬間的に目を逸らし、目の前のコンクリートの壁を蹴り上げる。当然、それは音も立てず、俺の足が痛くなっただけだ。だけど、身体中の血液が、沸騰したように熱かった。ぜぇ、ぜぇ、と荒い呼吸が意識せずに口から零れる。
  気 持ち  悪い
 
そのまま食ったものが逆流するような感覚に、慌てて手のひらを口に当てる。

 なんだこれ。なんだよ、こんなの、……いらねぇ。
 こんな現実、いらねぇよ。

 果菜からもらった手紙。何度も読み返してる内に、気付いたことがあった。それは封筒の内側。小さく小さく、隅っこの方に書かれた一文。
『好きです』
 
それは紛れもなく、果菜の字で。それを見たとき、ものすごく恥ずかしくなった記憶がある。しばらくは気恥ずかしくて、果菜にも素っ気ないふりをした。頭の中に果菜がぐるぐる回って、眠れない日もあった。
 だけど、嫌じゃなかった。
 それどころか、滅茶苦茶嬉しくて。勝手に顔がにやけてきて、やばかった。でも果菜は、もしかしたら、気付かれないと思ってこっそり書いたのかもしれない。だったら、今メールで言ったらパニックになるかもしれない。そう思って、春まで我慢することに決めた。果菜への、返事。
 考えたことなかったけど。俺にとって、果菜より大事な女の子なんて、いる訳なかった。当たり前のように、そこにあった答え。
 ――俺は、果菜が好きだ。
 そう思う度に、気恥ずかしくて、嬉しくて、でも、幸せで。いつだって、楽しみにしてた。
 果菜と会うこと。俺と同じ気持ちでいてくれる、果菜と笑うこと。

「……俺、馬鹿みてぇ」
 
いつまでそうしていたのか。呆然と座り込んでいた自分に気付いて、ゆっくりと立ち上がった。そのまま、ふらふらと歩き出す。
 考えてみれば、当たり前だろ。いつまでもずっと、なんて。言わなかった俺が、気付かなかった俺が、悪いんだ。果菜の気持ちに応えなかった俺が。
「……!!」
 
そこまで考えて、目の前が真っ赤に染まり、電柱に拳を叩き付ける。
「っ」
 
肘まで痺れるような、痛み。ぽたり、ぽたり、と俺の拳から地面に落ちる、赤い液体。だけど、それらに頓着しないで、俺はまた歩き出した。
 分かってる。なのに、身勝手な俺は。果菜が憎くて、たまらない。フラッシュバックした二つの光景が、あまりに、似ていたから。そうやって、果菜も母さんも簡単に心変わり出来んのかよって思ったら、反吐が出そうだ。もう、あの笑顔も、優しさも、何も信じられない。
 黙ったまま俺は携帯を取り出し。――果菜のアドレスを、削除した。

 家に帰ると母さんはまだ帰ってなくて。それに安堵と、一種の蔑みの気持ちを覚えながら、部屋に入った。そしてすぐに、机から果菜の手紙を取り出し、引き裂いた。原型をとどめないくらい、ぐしゃぐしゃにする。それを乱暴にゴミ箱にぶちこみ、他の写真や何もかも、全部捨てた。
 見たくなかった。見れば俺は、果菜を口汚く罵る。自分のせいなのに。果菜のせいにしてしまう、俺の弱さがあって。そんな自分もまとめて、捨てたかったから。果菜との思い出と、一緒に。

 それから受験を終え、春が来ても、俺は果菜に会わなかった。果菜からの連絡は全部シャットダウンして、携帯も変えた。その頃から、父さんがたまに戻ってきて母さんと話してたけど、もう、どうでもよかった。小さい頃繋いだと思ってた、手。そんなのもう、幻想でしかないって、わかったから。母さんは俺の冷え切った態度に泣きそうな視線を送ったけど。そんなもんじゃ、俺は騙されない。
 だって、一番最初に俺を裏切ったのは、あんただろ?それに気付かない父さんにも、愛想は尽きそうだったけど。

 そして、高校に入ってすぐ。ピアスをつけて、髪も染めた。馬鹿げた反抗だったとしても、俺はそんなことを繰り返すことでしか、自分を慰められなかった。だけど、女どもにはそれが受けたらしい。その内、同じ塾だった女子に、告白された。今までは、無視してた。でも。
「ねぇ、無理?要くん」
「……いいよ」
 
――別に、どうでも。
 俺は、その告白を受けることにした。だけどすぐに、「要くん、冷たい」なんて言葉とともに、離れていく。そうすれば別の女が擦り寄ってきた。
 もう、誰でもよかった。誰でも、一緒だった。
 温もりを、くれるなら。
 果菜で、ないのなら。
 それならば、誰でもいいのだ。俺を満たせる人間なんて、もう、どこにもいないのだから。
 成長する身体に、刻まれる女の味。なのに俺は、いつでも心は飢えた餓鬼みたいに、不安定だった。
 そうして、中学の時の綺麗な思い出から離れていく。あの、側で果菜が笑うだけで満たされる日々から。何も変わらない毎日。何にも心揺れない毎日。それは、大学進学と同時に、色を変えた。


『かな、め?』
 
友達と、入学式が行われる体育館へ、向かう途中。不安げに背後からかけられたその声に、背筋が反応した。
 まさか。どうして、今更。
 嫌な汗をかく手をぎゅっと握りこみ、振り返る。そこには。
『あぁ、やっぱり!!久しぶり!!元気だった!?』
 
満面の笑みを浮かべ、薄化粧をした。――あの頃より、ずっと綺麗になった、果菜がいた。
 その笑みに、心臓が動く。……未だに、ここは果菜にしか反応しないらしい。我ながら、馬鹿みたいな執着にため息も出なかった。
 その間も、にこにこと笑いながら近付く果菜の顔には。相も変わらず、素直さと、快活さと。そして、――俺を好きだという気持ちが、溢れていた。
 昔は気付かなかった、それ。今はそれなりに女との付き合いもあるから、分かる。
 だけど俺は。

 
そんなもん、今更、いらねぇんだよ。

『……久しぶり。とりあえず、それ以上近付くな』
『へ』
『俺はお前の側に、いたくない』
 
わざとらしく言った言葉に、呆然とした果菜の顔は、徐々に泣きそうに歪んでいく。その様を目の当たりにして、俺は自分の顔が愉悦に満ちるのを感じた。
 ――
ああ、そうだ。
 傷付けよ、お前も。傷付けて、傷付けてやるんだ。
 優しくしたら、またお前は、俺を忘れるだろう?
 そしてまた、他の男の元へ行くんだろう?
 だったら、傷付けてやるよ。俺しか見られないように。
 好きだなんて、言うな。そんな甘ったるい感情じゃ、俺は満足しねぇよ。

 ――俺を憎め

 心全部、俺でずたずたにして。
 俺を憎んで、憎んで。四六時中、その心を一杯にすればいい。俺しか、その瞳に映さなければいい。
 俺はずっと。ずっと、そうしたかったんだ。だけど、そんな自分を、隠そうとした。果菜と距離をとって、傷付けないようにした。
 だけどお前が、この距離を縮めたんだ。お前が、引き金を引いたんだ。だから。許してなんて、やらない。許しを請うて、俺で一杯になって、お前が滅茶苦茶になっても。俺はお前を、解放なんてしない。
 その揺れる瞳の中の俺は、確かに、幸せそうだった。

* * *

「ん……」
 
窓の外の雨音が、強くなっている。ゆるりと目を開ければ、外はもう真っ暗になっていた。欠伸を噛み殺しながら、身体を起こす。
 いつから寝ていたのだろう。お陰で、嫌な夢を見た。
 結局俺は、まだ果菜を完全に傷付けきれてない。なのにあいつが逃げ回るから、こんな夢を見たのかもしれない。ため息を一つ落として、ベッドから立ち上がった。大きく伸びをし、一階に向かう。喉が、乾いた。
 雨は、激しくなるばかり。湿った階段の感触に舌打ちをして、一段飛ばしで降りていく。じめじめとした梅雨特有の空気は気持ち悪くて、好きにはなれなかった。

 暗いキッチンで、電気も点けず冷蔵庫を開ける。奥にあったミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、口をつける。ふっと窓に目をやると、水滴が張り付いていた。
「……」
 
何となく、窓に近づく。そして、そっとその水滴をなぞった。水滴自体は外側に付いているので、触れはしないんだが。何となく、それが。――あの日の果菜を、思い出させて。同時に、胸がむかむかとした。かたん、とシンクにペットボトルを置く。
「馬鹿、だな」
 
――見当違いの憎しみ。
 自分でも、分かってる。こんなの、間違ってる。でも、果菜を見ていると、どうしても駄目なのだ。他の男に取られるくらいなら、俺が壊してしまいたい。凶暴な衝動には、歯止めが効かない。果菜が、こんな俺でも、昔のように甘やかそうとするから、尚更。しかも、その目には俺は昔のままに映っているから。昔の自分に嫉妬なんて馬鹿げている。なのに、止めることが出来ない。こんなの、本当にただの餓鬼だ。どうやったって、満たされないのに。
 ペットボトルをもう一度取り上げて、ごくりと飲み込んだ。




こんな水なんかじゃ、潤わない。
俺の乾いた部分に恵みを与えるのは、いつだって。
――そう、いつだって。
『要!!』

君の、眩しいまでの微笑みなのに。


  

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