幾重にも重ねられ、厳重に隠された君の本音。

だけど、ねぇ、お願い。

どうかあたしにだけ、その奥底まで触れさせて――。



ウソツキの恋人(1)


 パカリとケータイを開けば、今日も要からの連絡はない。当然だ。最初に無視したのは、こっちなんだから。あの飽きっぽい要が、あたしを嫌いな要が、あたしのために一生懸命になってくれるはず、なくて。
「はぁ」
 
静かな図書館だと、ため息も割に大きく響く。後ろの席の人があたしを見ている気がして、慌てて本に乗せていた顔を上げて、シャーペンをもう一度、握りしめる。だけどいくら頑張っても、レポート用紙は埋まらない。頭にぐるぐる回る、あの日のことばかり、あたしの中で膨れて、弾けそうで。

 問い質したくて、
 でも、
 またあんなことを言われたら、
 ――きっとあたしは壊れちゃうから。

 ただ口を閉ざし、要を避けることしか出来なくて。その癖、逆の立場になれば寂しがる。都合がいい、我ながらそう苦笑せざるを得なかった。
「要……」
 
指の腹で、そっとケータイを撫でる。そのまま、どこまで行っても愛おしい人の名前を呼んだ。
 あんなことされて、怒っていいとは思う。現に、友達には「縁を切って正解だ」、と要を避けてすぐに言われたし。分かってる。あんなひどい男、いつまでも思っていたって何の意味もないこと。
 ――それでも。
 どんなにひどい男だって、いいの。どんなに冷たくされても、傷付けられても、どんなに無視されても。要が、ほんの少し振り返って微笑んでくれるんなら。あたしは、それで幸せになれるから。
「……」
 
そっと目を伏せて、昔の要と、今の要とを、思う。
 素直な微笑み、大きく真っ直ぐな瞳。
 皮肉げな微笑み、鋭く尖らせた流し目。
 そこには、どんなに探ったって何の共通点も見えないのに。多分、魂レベルであたしは要が好きなんだと思う。じゃなきゃ、入学式、チラッと見えた横顔であいつが分かるはずがない。
 高校に入る直前から連絡が取れなくなって、手紙を書いても返ってこなくて。残り三年間、絶望の淵にいたのは、未だに記憶に新しい。
 あたし、何をしたんだろう。何で要に嫌われちゃったんだろう、って。今でもその疑問は胸を占めているけれど。
「……大体、幼馴染に再会していきなりあの台詞って何なの、あいつ」
 
入学式を思い出し、口の中でぶつぶつ文句を言う。隣の席の神経質そうな眼鏡くんがあたしを睨んでいるけれど、無視した。思い返せば腹立つことばかりで、それにいちいち一喜一憂してる自分にも腹立つ。そして最後に残るのは、結局――要が好き、という気持ち。我ながら、単純すぎる思考回路に苦笑した。
 身が切られる程辛いと思った、三か月前。けれど、三年前、きっとあたしはそれ以上の痛みをこの胸に刻んだ。もう一度、今度はあたしから、要の手を離すの――?
 改めてその答えを自分に問えば、そう。いつだって、決まっていたのに。

 ぼんやりと頬杖をつくあたしのケータイが、本の上で震える。横で響く、わざとらしい咳払いに内心舌を出しながら、メールを確認した。
 えーっと、送信者、佐緒里。
 学部で仲いいメンバーの一人で、要に興味のない珍しい子でもある。というか逆に、可愛らしい容姿と反対に毒舌で、要とは口喧嘩仲間だ。ふと、二人の低レベルな喧嘩を思い出してふっと笑みを零しながら、メールを確認する。と。
 『かなぁ〜最近かなめ登校拒否らしいんだけど、知ってたぁ〜?』
「……え」
 
可愛らしい文面や絵文字とは正反対の衝撃の内容に、あたしは今度こそ固まった。

 メールを受け取ってすぐ、駆け足で佐緒里に会いに行った。一・二年で単位を取り溜めして今年は週二しか授業のないあたしと違い、佐緒里と要は週五で授業があるはず。電話をすれば、すぐに大学にいる、と言われた。
 そこですぐに要に電話できなかったのは、自分でもチキンだと思うけどね!!
 カフェテリアにいた佐緒里の元にいくと、ふわふわパーマを指先でつまみながら、彼女は笑った。
「要にCD借りる約束してたんだけど〜、全然見掛けないし〜?そんで他の子に聞いたら、どの授業も出てないって言うからぁ〜」
「え、それっていつから……?」
「知らな〜い。でも経済学論は四月から見てないよぉ」
 
果菜も知らないことってあるんだねぇ、そう言って笑う佐緒里にあたしは苦笑しか返せなかった。
 四月から、ってどういうこと?あたしにあんなことしてから、学校来てないってこと?――まさか、そうまでしてあたしに顔合わせたくないってこと!?
「別にそれは出席取らないからいいんだけどぉ、他の授業がいちおー心配になっちゃって。前期で単位落とすと、後期就活あるし厳しいでしょ?」
「……そうだね」
 
佐緒里の言葉に返事を返しながら、内心ふつふつ湧く怒り。
 何、あいつ。不登校になりたいのはこっちだってば。じゃあ何、四月からこっち要に会うんじゃないかってビクビクしてたあたしは何!!
「それでね、前期のテスト範囲と日程メールしたけど返事ないしー。果菜からも言ってあげ」
「佐緒里、悪いけど」
 
のんびりした佐緒里の言葉を、あたしは苛立ちのままぶった切った。そのまま、バッグを肩にかけ、顔を顰めて口を開く。
「ごめん。要に言いたいこと一杯あるから、今日は帰る」
 
――とりあえず、この苛立ち全部ぶつけてやらなきゃ気が済まない!!
 泣き寝入りなんて真っ平ごめん。言いたいことも言えないなんて女の沽券に関わる!!
 とりあえず授業出ることとあの事件の真相、それから、……あたしの気持ちも。全部全部、あいつに吐き出したい。楽になりたい。その気持ちを込めて佐緒里に謝ると、ニッコリ笑われた。
「りょーかーい。気を付けてね〜パクッてされないように〜」
「……」
 
何だか微妙に洒落にならない言葉には、コメント出来なかったけど。

 そして一時間後。要の家の前に立っている訳だけど。
「……」
 
気 ま ず い
 
四月に『最低』とか『大嫌い』とか叫んどきながら、『あんたちゃんと授業出なさいよー』って言うの?電話とかシカトしたのに?何か色々間抜けすぎるだろうあたし!!
 あああ、もう少し早く気付いてれば良かった。三か月も経ってからそんなこと言い出すって、何のコントよ。もう色々ごめんなさい。要に会わないの、『あたしの要レーダーがこっちにはいないって言ってる!!』とか馬鹿な思考ばっか巡らせていてごめんなさい。
 間抜けすぎる自分に涙目になりつつも、深呼吸を繰り返してインターホンに指を添えた瞬間。
「あーらっ、果菜ちゃん!?」
 
後ろから、かなりの力で肩を叩かれ、はずみにより。
 ―
ピーンポーン
「……」
「……」
「……あぁぁ!!」
 
まだ決意してないのに!!どうするんですか要出て来ちゃったら!!何言えば良いんですか!!いや、あいつ居留守率ものすごく高いけどね!!……ってそうではなくて!!
「、っ陽子さん!!」
「久しぶりー元気だった?綺麗になったわねー」
 
ぐりんっと勢い良く振り返ると、人好きのする微笑みで陽子さんは笑った。昔、『おばさんなんて呼ばないで、陽子さんって呼んで』と言われたけれど、確かにおばさんなんて呼称似合わない人だと思う。大学生の息子がいるとは思えない位、ひどく綺麗な笑顔。その遺伝子は、見事に受け継がれているようで。あの無愛想な彫刻みたいな顔が一瞬で浮かび、消えていく。
 そう、陽子さん――要のお母さんがそこにいた。

「果菜ちゃんに会うのも久しぶりねぇ。半年ぶり位かしら」
「あ、そ……うですね。お元気でした?」
「見ての通りよ」
 
ピンポンは鳴らしてしまったものの、家の中には誰もいなかったようで。帰ろうとする私は陽子さんに引きとめられ、リビングに連れ込まれ、現在に至る。キッチンで紅茶を淹れてくれてる陽子さんには悪いけど。
 ……ものすっごく帰りたい。この状況で要が帰ってきたら、確実に気まずい。
 好きな人のお母さんに気に入られてるのは全然良いことだけど!!でも、何て言うか!!
 言葉に出せず、座らされたソファの上で丸くなるあたしを、キッチンから出て来た陽子さんは小さく笑った。
「要なら、しばらく帰らないと思うわ」
「え」
「私が帰るってメールすると、あの子絶対いないから」
 
苦笑しながらソーサーを取りだし、その上にカチャリ、とカップが置かれる。真っ白なそれと対照的な琥珀の液体に目を細めると、陽子さんは静かに口を開いた。
「中学三年生の頃から、ずっとね。最初の頃は反抗期なだけかと思ったけれど」
「……」
「もともと、要はあまり我儘とかも少ない子だったから。甘えられてるのかと思って、正直嬉しく思ってた時期もあったの」
 
でも、違った。
 ぽつりと零してカップの淵をなぞる陽子さんの指先は、綺麗だ。きちんとネイルも施され、あたしにとっては昔から憧れの女性だった。それは多分、要にとっても。綺麗で、サバサバしてて、仕事も出来るお母さん。素敵だよね、って言うといつも照れくさそうに微笑んだ。
 ――どうして?
 どうして、要は。こんなに大事な人を、大事にすべき人を傷付けているの?そこには、何か、理由があるの?
「でも、それがずっと続くうちに、やっと気が付いた。要は、私のことを嫌っている」
「そんな、」
「ううん、分かるわ。会うといつも、憎むような目で見られる。ひどく、責められてる気がする」
「……」
「だから、メールするの。メールすれば、要は出て行くから、私の顔見ないで済むでしょう?そのほうが、要のためだから」
 ふっと自嘲じみた笑いを零し、陽子さんはまだ湯気の立つ紅茶を一気に飲み干した。その喉が動くのを見つめながら、あたしもカップを両手で持ち上げる。クーラーの効いた部屋の中、その温度は冷えた指先に心地良く。ふわりと香った優しい香りに、零れそうなため息を堪えた。
 
『要のためだから』陽子さんがそう言った瞬間、あたしは何て言ったらいいか分からなかった。
 本当に?
 真っ先に浮かぶのは、疑問。それは、違うんじゃないか、という否定。だって、顔を見なくて済むのは、それで楽だと感じるのは――。
「……陽子さんの方だ」
「え?」
 
自分の中で瞬時に弾き出された答えに、あたしは口に出してから吃驚した。
 どうして、そう思う。どうして要じゃなくて、真っ先にそっちを疑うんだろう。
 でも、でも。メールすればいなくなると分かっていて、メールを入れて、顔を合わせない。要にだって重労働だと思う。人を憎むって、すごく体力を使うことだ。だから陽子さんの考えも正しいのかもしれない。
 でも、要に憎まれることで『疲れる』と感じる人は、誰?責めるような瞳で見られて、嫌じゃない人なんていない。そこから逃げる方法を模索しない人は、いない。
 気付いた瞬間、息が出来なそうな位、苦しくなった。
 訝しげな顔をする陽子さんから顔を背けて、あたしは口を開く。
「た、しかに、最初にひどいことしたの、要かもしれないけど。陽子さんは、……ずるいです」
「果菜ちゃん?」
「要は、陽子さんの子供でしょう?そんな風に達観する前に、問い質すなり、ぶつかるなり、するべきだと思います」
 
目が、合わせられない。小さい頃から憧れた人に、口答えする。そんな自分が信じられない。
 俯いて、カップの取っ手をギュッと握り締めながら言葉を絞り出した。
「自分の母親に、避けられてるって分かったら。……ますます、頑なになります」
「……」
「陽子さんのやり方はっ、家族じゃありません。他人に対するやり方です!!」
 
後半、声が震えるのを我慢しながら叫べば、シンと冷えた空気に触れた。紅茶の表面が波立っている。それを見て、自分の指先が震えているのに気付いて、泣きそうになった。
 ――本当は。偉そうなこと言いながら、泣きそうだった。
 
自分が、陽子さんと全く同じやり方をしているのに気付いて。要のためだ、要が好きだからだ、なんて言いながら、体良く自分が傷付くのは避けてた。
 
人間って、身勝手だ。自分がどんなにひどいことをしても、許してくれることを願っている。そんな形でしか、甘えられない人もいる。理由は分からないけれど。今の要は多分、そんな状態。だって、知っているから。あたしといる時、憎まれ口しか叩かないけれど。馬鹿にしたような微笑みしか見せないけれど。ふと、一人になった時。要が寂しそうに遠くを見ていること。その顔が、小さい頃に両親をじっと待つ姿と全く一緒なこと――。

「……ふふ」
「……っ」
「果菜ちゃん、……大人になったのね」
 
ぼんやり、その横顔を思い返していると。不意に、静かな笑い声が響いて。驚いて顔を上げると、陽子さんは寂しそうに笑っていた。悲しげな光が揺らめくその瞳に、胸がきゅうっと苦しくなる。何故だか急に、陽子さんが一気に年を取ったように感じられた。
「昔、全く同じことを旦那に言われたわ」
「おじさん、に……?」
「ええ。昔から、私、大事な人であればある程、仲が少しでも悪くなれば逃げる人間だった。言い争ったり、決定的な言葉を言われたり、そういうことに怯えていたの」
 
弱い人間なの。
 そう零す陽子さんの背中は、ひどく小さい。
 ……こんな人、だっただろうか。あたしが長い間、見つめ続けてきた『隣の家のお母さん』は。ふと、疑問を覚える。
「……自分に負い目があるから、尚更要の目を気にしてしまうんでしょうね」
「え?」
「私、――浮気していたことがあるの」
 
けれど、それに答えを出す暇もなく。真っ直ぐな視線で言われた言葉に、あたしは何も言えなくなった。揺れる瞳の奥は、闇に埋もれている。その真意を探ろうとしても、きっと手が届かない。そう思わせる程、深い色をしていた。
「旦那が赴任してしばらくすると、私も仕事が忙しくて精神的に安定しなかったのよ。それで会いたいって言ってもドタキャンされたり。……そんな時、会社の後輩にプロポーズされて、子供がいてもいいって言われた」
「……」
「今思えば、そこで旦那に相談すれば良かったのに、私、近くで甘えられる人を求めていたのね。返事をズルズル先延ばしにして、都合良く食事や愚痴に付き合ってもらった」
 
ぽつりぽつりと語られた事実に、さすがにショックが隠せなかった。クールに見えてしっかり信頼し合っていたおじさんと陽子さん。そんな二人に隠されていた、生々しい現実。想像したこともない、男女としての夫婦関係に、唖然とする。
「旦那とは電話で喧嘩が続いて、それに対する文句を彼に聞いてもらう。でもそんな毎日が続いて、とうとうガタが来てね。ある日、仕事中に倒れちゃった」
「……」
「それを彼が家まで送ってくれた。その途中、公園で気持ち悪くなって話を聞いてもらった時に、キスされそうになったの」
「!!」
 
陽子さんの口から吐かれるのは、あまりに直接的というか。とにかくにも、現実味を帯びすぎていて、苦しくなった。今まで、一度も匂わせたことのない陽子さんの『女』の部分。それに触れながら、違和感で一杯になる。その理由は、あたしは陽子さんの『母親』の部分しか知らないからで。
 ……そうか、と納得した。
「でも、その時初めて分かった。私は旦那を愛している、だから辛いんだ、だから代わりを求めたんだ、って」
 
――あたしは、多分、陽子さんに認められる位には大人になったんだ。
 今のあたしは、陽子さんにとって隣の家の小さい子供じゃない。対等に、正直に話せる大人なんだ。
 実際には全然そんなんじゃないから、苦しい。そして、痛い。
 大人になるってこんなに辛いんだろうか。憧れの人のこんな部分知りたくなかった、そういう気持ちが胸を占める。でも、同時に。
「それからすぐに、彼にはお断りの返事をした。要のこともあって、浮気の件もまとめて旦那に話したわ。すぐに、怒ってくれた」
「……はい」
「『他人なら、逃げるのもアリかもしれない。だけど俺達は家族だ。何でもぶつけ合うべきだろう』って言われた。その瞬間、すごくホッとしたの。甘えてもいい、ぶつけてもいい、って言われてるみたいで」
「……」
「昔から、どこか格好つけちゃう癖があったのね、私。それを全部見越して側にいてくれて、そういうのが好きだったことも、忘れていて。嬉しくて、泣けた。……でも結局、要からは未だに逃げようとしている」
 
呟きながら、陽子さんは俯く。一瞬どうしようか、迷ったけれど。
 ――その手にある紅茶の表面に、波紋が出来たのに気付いて、迷わず立ち上がり、彼女の背に腕を回した。小さく細いその肩を、出来る限り優しく撫でる。
「家族、なんですよ。陽子さんと要は。これからだって、いくらだってやり直せます」
「……そうかしら」
「はい。要は、ちゃんと何度も話せば耳を貸してくれます。それまで、辛いかもしれない。苦しいかもしれない。でも、」
 
ぐ、とそこで一旦言葉を切る。そして、腕に力を込めた。押し殺したような嗚咽が、耳元で響く。
 
ショックは大きかった。
 
悲しさも、苦さもあった。
 
それでも。

「――最後には、ちゃんと笑えるって、信じてるから」

 
憧れの人、というあたしの被せた仮面が剥がれた陽子さんは、昔よりずっと身近で。ずっとずっと、好きになれる気がする。
 完璧な人なんていない。完璧を押しつけられるべき人なんていない。それを知って、改めて陽子さんを好きになれた気がする。
 そんな、気がする。

 しばらくあたしの腕の中で黙り込んだ陽子さんは、やがてそろりと顔を上げて。
「……うん。そうだよね」
 
ふわり、綺麗に微笑んだ。真っ赤な目元に彩られながらも、少しだけ目元に皺が増えても。いつまでも、綺麗なままの笑み。あたしの大好きな人に、そっくりな。
 だからあたしも笑い返す。大事な人に、いつでも素直に気持ちを渡せるように。もう、迷わないで済むように。


  

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