ウソツキの恋人(2)
「……ごめんなさいね、泣いちゃって」
「いいえ。話していただいて、嬉しかったですよ」
悪戯に微笑んで、お茶のお代わりをカップに注ぐ。冷めてしまったけれど、さっきよりずっと美味しく感じる。陽子さんはそれに口を付けて、恥ずかしそうに笑う。それに微笑み返し、会話を続けた。
内容はたった一つ。どうすれば、要と近付けるか。
そのためにはまず、要が絶対に家にいなくちゃいけない。けれどもデートの予定などあれば出て行っちゃうし、あたしのメールは黙殺されるだろうし。かと言って、陽子さんも仕事があるからいつも家に張り込んでいる訳にもいかない。
二人で考え抜いた末。あたしは、この家に来る途中見たポスターを思い出した。
「七夕、祭り」
「え?」
「七日の……確か、日曜日です。近くの神社で、お祭りがあったはずなんですけど」
「あ、ええ。あるわね。小学生の頃、よく果菜ちゃんと二人で行っていたわね」
「……そうですね」
ふっと、その頃のことを思い出す。
あの頃、決まって先を走るのはあたしで。早足のあたしに手を引かれた要は、転びそうになりながらほんの少し泣いていた。それに「男の子でしょ」なんて言いながら歩幅を緩めるとほっとした顔になる。その笑顔があんまり可愛くて、情けなくて。大声で笑い声をあげ、いつも要を困惑させていた記憶がある。
……今だったらありえないな。
トリップする前に思い出をシャットアウトし、陽子さんに向かい合う。
「で、その七夕祭りにあたしが要を誘います」
「えぇ?そ、それで?」
「再会してから、何て言うか。要、思い出話とかやたら嫌がるんですよね。で、七夕祭りって結構当時の同級生とか会う確率高いんですよ。外を歩けば知り合いに見つかるかもしれない状態で、しかもあたしの呼び出しがあるなら絶対家にいます」
以前。態度があんまりひどい要の元へ、アルバムを持ってきたり同級生の話をしてみたりした。そうしたら、いつも以上に仏頂面になって黙り込んでいたから。理由は分からないけれど、それ以来無意識以外ではあまり中学以前のことは話さないことにしている。そりゃあまあ、要と思い出を語り合えないのは寂しいけど、何か理由があるんだろうと思って。
それと、要と遊びの約束をして待ち合わせ場所に来てくれたことは、まずない。基本的にあいつは、あたしが家に来るまで寝こけている。
……何か、自分で提案しておきながら軽くこれ、へこむなぁ。
ズドン、と落ち込んだあたしに慌てて陽子さんは肩を叩いた。
「じゃ、じゃあその日に家にいればいいの?」
「ええ。間違いない、と思います」
「……でも、果菜ちゃんは?私と要が話してたら、会えないでしょう」
「別にあたしは、」
「話すこと、あるんでしょう?」
「……」
話がまとめにかかるといきなり、陽子さんが真顔でそんなことを言って。ぎこちなく笑顔を作りながら、返事を返した。真っ直ぐに見据えられ、どきまぎする。断言されたその言葉に、なんと言えばいいのか分からない。
カチコチ、と鳴る時計の音にあたしは息を呑む。緊迫した空気に、声も出せない。すると不意に、陽子さんは視線を背けた。
「……長年目を見て話してはいないけれど。でもね、要と果菜ちゃんが何かあったのは分かるわ」
「……」
「最初は私の浮気に勘付いたんじゃないか、って思った。でも、それだけじゃああはならないわ。きっとこの子は、果菜ちゃんのことで何かとても悲しいことがあったんだろう、そう感じた」
静かに吐き出される言葉が、真実かどうかも分からない。
信じたい気持は、ある。心の底から。自分がそんなに、要に影響力があるって。
でも。
「……そんなことないです」
どこか震えた本音が、結局あたしの唇から零れた。
「だ、って、あいつ、一杯彼女いて、っあたしのこと、いっつも馬鹿にして、嫌ってて、」
「……」
「気持ちを、告げさせてもくれない……、いっつも、背中ばっかりっ……」
ぽろり、と一つ零れれば落ちる涙のように。長年降り積もった言葉は、どんどん溢れた。要に対する愛しさ、大切さ、執着、あったかい気持ち。
でもそれとは裏腹に、確実に存在する。苦しさ、悲しさ、辛さ。
あの時見えた笑顔は、要を追い越さなくちゃ見えないのに。冷たい視線に晒されるのが怖くて、何度も二の足を踏んだ。
片思いだとしても。好きな人に冷たく扱われて、平気な人なんていない。目の前で、他の人とキスなんてされて、平常でなんていられない。たった一度だけ、見たことがある。構内で、要が綺麗な人と静かに交わしていたキス。それと同じものが自分に与えられた時の幸福感と、その後の絶望。一度与えられた後奪われる幸福は、ひどく痛くて、悲しくて――。
あたしに向けるのは無機質な背中。だけど、他の人にきっと要は無償の笑顔を、温もりを与えていて。
綺麗じゃない、この恋は。執着と嫉妬と、ひどい苦みで出来ている。そんなドロドロの自分が嫌で、要をいつもどこかで責めている。そんなあたしを、要はひどく嫌っているのに。
ぐっと唇を噛み締め、スカートを握りしめる。
すると。
「知ってる?果菜ちゃん」
優しい温もりが、あたしの手に触れた。
「好きの反対はね、無関心なの」
「……知ってます」
「嫌いって言うのは、相手が気になって仕方ない証拠。果菜ちゃんを困らせて、傷付けて、……そういう形でしか、あなたを愛せないのね」
「っそんなの……!!」
そんなの、詭弁だ。
そう反論しようとするあたしの目の前に広がるのは、陽子さんの微笑みで。いつだって夢見た、あの人によく似ていて。
「果菜ちゃん」
不覚にも、
「あの子、私が誰の話しても無視する癖に、果菜ちゃんの話の時だけ怒るのよ」
涙腺が壊れそうになった。
結局、その日はそれでさよならした。陽子さんはニッコリ笑って、「ちゃんとお祭にも要は行かせるから」と言っていた。そんな彼女にあたしはそれ以上、何も言えなかった。
――彼女の言葉に納得した訳じゃない。
でも、それでも。縋りたかった。昔から言われている、『好き≒嫌い』の方程式に。
迷いながら作った送信メールをじっと眺めて、あたしはため息を吐く。電車の中、景色を見つめてぼんやりするあたしは、周りの人からはどうでもいい存在で。家族でもなく友達でもない人間なんて、きっと誰も気には留めない。
けれど、それでも。あたしは、要を見つめ続けるよ。中学生から、今に続く君を。何度も何度も、取り零してしまったけれど。今度こそ、完全に逃してしまうかもしれないけれど。人付き合いが苦手な君の、手を取りたい。ぶつかるでなく、自分の中に全部溜め込んでしまう、君の。
幼い頃に交わした約束。『要の側にあたしがいる』という言葉。それは全部全部、嘘じゃない。出来れば、要さえ許してくれるなら、不確定な口約束を一生モノにしたい。それが、あたしの願い。
だから。
「……っ」
ぐ、と息を呑んで送信ボタンを押す。何度も何度も、送信中止ボタンを押そうか迷いながら、何とか堪えた。そうこうする内に、『送信完了しました』という文字が浮かび上がり。あたしはバクバクする心臓を感じながら、額に滲んだ汗を拭う。
気付けば、電車はもう地元の駅のホームに滑り込んでいて。汗で滑りそうになりながら、バッグを掴む。音を立てて開いたドアの向こうへ、一歩、足を踏み出した。
そう。一歩、だ。これ以上ない程大きな一歩。
結末は分からない。今度こそ、完全に泣くことになるかもしれない。それでも良い。黙り込んだ君の言葉を、今度こそ手に入れよう。
そのための。――未来へ、踏み出す一歩。
* * *
「お母さんっ、変じゃない!?」
「はいはい、大丈夫よ」
「もーっ、適当に答えないでよ!!」
「可愛いわよ。でもどうしたの、いきなり?もう浴衣は着ないって言ってたじゃない」
「……」
七夕祭りの夜。
『神社の鳥居に六時に』とメールをしたけれど、予想通り返事はなく。陽子さんは今日は昼から有休を取って、要との話し合いに臨むらしい。「話が終わり次第、果菜ちゃんのところに向かわせるから」と笑っていたけれど。
――きっと、そんなの無理。
陽子さんがいくら言っても、要があたしの元へ来ることは、ない。あいつがあたしに会いたがるはずないし、陽子さんとの話し合いがすぐ終わるとも思えない。
それなのに、何故あたしは浴衣なんて着てしまってるのか。要に、馬鹿にされたはずの浴衣を。
「……結局、期待してるのかなぁ」
「?何か言った?」
「何にも」
陽子さんに言われた、その甘い言葉に。
要が、もしかしたら来てくれるかもしれない。あたしに、会いに。その時、少しでも綺麗な格好でいたいのだ。一年に一度しかない、今日この日くらいは。
まだ陽が落ち切らない空の下、あたしは足早に神社に急いだ。 |