ウソツキの恋人(3)


 日曜日。果菜からのメールは、もちろん無視した。俺からの電話を散々無視しといて、今更祭りなんぞに誘うのが気に食わない。それ以上に、あの七夕祭りってのは、中学時代の同級生の溜まり場なのだ。毎年、町内の大学生くらいの連中が手伝いに駆り出され、思い出話に花が咲く。そんな中にわざわざ出向き、知り合いになんて会いたくない。
 ……かと言って、果菜をアイツに会わせるのも相当苛立つが。中学時代、俺の心を歪める原因の一つとなったあの場面を思い出し、眉を顰める。
「……はぁ」
 
自分の方こそ、よっぽど色んなコトをしてきた。それなのに、あのたった一度の光景が許せない。自分の中で、いつまでも燻ぶる黒い欲望を、抑えられたことは一度としてなくて。抑える、気もなくて。子供のような自分に、軽く自嘲を零した。
 部屋に引き籠る用についさっきコンビニで買って来た缶ビールを、袋から取り出す。プルタブを引っ張り、一口ごくり、と飲み。リビングの扉を開けると――。
「お帰り、要」
「……あ?」
 
この世で一番嫌いな女が、俺に微笑みかけていた。

 不快感で、手の中の缶ビールを握る手に力が籠る。そんな俺を、そいつはただ、じっと見つめるばかりで。黙ってリビングの扉を閉め、足早に廊下を歩く。
 油断した。最近は、帰ってくる時は必ずメールを入れるから、知り合いの家を転々とすれば良かった。なのに、今日に限って。
 一瞬でも目を合わせてしまったことに後悔して、大きく舌打ちを零す。
 今日は家から出られない。外に行けば、誰に会うかも分からない。あっちの中学の連中にも、こっちの中学の連中にも会いたくない。
 仕方ないから、部屋に引き籠ろう。そう思って、階段の一段目に足を掛けた時。
「要」
「……」
 
背後から、静かに自分に呼び掛ける声。目の前の出窓から差し込む夕日が眩しくて、目を細めながらもう一段分、階段を昇る。すると、さっきよりずっと焦った声で名前を呼ばれた。
「……なんだよ」
「話があるの」
「俺にはない」
 
決して振り返らない。
 俺そっくりのその顔が、嫌で嫌で。鏡を見る度、叩き壊していた頃があった。今はもう諦めているけれど、それでも好き好んで誰が見たいものか。母親の皮を被った、ただの女に用はない。こんな女、信じていた自分にも吐き気が起こる。
 苛々して、手元のビールをもう一口含み、足早に階段を昇る。
「私のこと、気に入らないなら理由を言いなさい。いつまで子供のままで、果菜ちゃんを困らせるつもり?」
「……ああ?」
 
それなのに。馬鹿みたいに、たった一人の女の名前が出るだけで、立ち止まる自分にむかつく。けれど、こいつにだけは、果菜のことを口にして欲しくない。
「何も知らない癖に、何が言いてぇんだよ」
「あんたよりは知ってるわ。今のままなら、確実に果菜ちゃんは別の人のものになるだろうことも」
「……ふざけんな」
 
頭に、一気に熱が昇ったようだ。思わず振り返る。夕焼けの中、目を逸らすこともなく、女は俺を見据えていた。強い光を放つその瞳は、何故かひどく懐かしく、けれどどこぞの馬鹿女にも似ていて。一瞬固まる俺に気付かないまま、女は必死な表情で叫ぶ。
「あんたがあの子に執着してるのは、分かるわ。でもね、果菜ちゃんはものじゃない。一人の女の子よ。大事にしてあげるべきだし、そうされるべき存在だわ」
「……それだけかよ、言いてぇのは」
「……違う」
 
こいつのペースに乗せられて、下手に話しこむのはまずい。瞬間的にそう思い、わざと冷たく切り返す。そうすると、女は一瞬悔しそうに俯いた。その隙に階段を昇ろうと、足を一歩踏み出す。
 けれど。
「――果菜ちゃんと要、わざと引き離した、って言ったらどうする?」
「は?」
 
予想もしなかった言葉が、俺を引きとめた。
「あんたは、昔っから果菜ちゃんに執着してた。傍から見てて怖いくらい。だから、引っ越した、って言ったらどうする?」
「――っ?」
 
考えもしなかったこと。一瞬、頭が混乱した。
 執着、引き、離す?
 俺の様子に気付いたのか気付かないのか、畳みかけるようにふりかかる言葉。目の前の窓の中、夕焼けが沈んでいくのを見ながら、俺は息を詰めていた。
「一旦、お互いクールダウンするべきだと思ったの。果菜ちゃんも要も、お互い好き合ってるの分かった。でも、あんまり狭い世界で二人が満足しそうなのが分かって、私……」
 
それが正しいものだ、と言うように、毅然とした口調。一瞬で、頭が真っ白になり。
 気付けば、駆け下りてあいつの胸倉を掴んでいた。壁に押し付ければ、苦しそうになりながらわずかに笑う、女。

 ふざけんな
 もしお前が、そんなことしなければ
 果菜は、他の男なんて見なかったのかもしれないのに――

 忘れるものか。全身の血が煮えるほど苛立ったあの日のこと。
 もしも俺が側にいれば。
 何度も何度も、そんなことを考えては消した。仮定を考えても仕方ない、って。
 でも。でも。それが人為的なものだったら、俺は。
「もちろん、……嘘、だけどね」
「っ」
 
けれどすぐ、女は息も絶え絶えに言った。はっとして、服を掴んでいた手を離す。咳き込みながら、ゆっくり廊下に沈み込むその姿を見ながら、拳を握った。
 乗せられた、ってことかよ。馬鹿か、俺は。考えれば分かることだったのに。果菜のことになると、すぐに頭に血が上る。そもそも、エイプリルフールにキスをしたのだって、あいつが嘘を吐いたのが許せなかったからで。繰り返される、馬鹿みたいな執着に笑えた。
「……っ、ごほ、……で、も、やっぱりね」
「……あ?」
 
咳き込み、壁に背を預け、女は俺を見上げて笑う。オレンジに照らされたその瞳は、強い光を帯びていて。傲慢不遜に見えた。
「最初は、要がそんな風に豹変したこと。私が浮気したことと、関係してるのかと思った。でも、違う。やっぱり、一番の鍵は果菜ちゃんだったんでしょう」
 
苛々し過ぎて、一瞬、その言葉を聞き流した。だけど、すぐに巻き戻して、もう一度。
「――浮気、って」
「……知ってたんじゃないの?」
「知って、た、けど」
 
何から言えばいいのか分からない。
 俺の反応を見て、若干顔を歪めながらも、女は俺を見据えてる。その態度に、俺の方が混乱した。
 何で俺が知ってることを、分かっていたのか。何で、果菜のことまで分かっていたのか。
 いくつもの疑問が浮かぶ。でも、それ以上に。

 やっぱり、あんたにとってはその程度のことだったのか。
 
あん時俺が受けた衝撃も、――あんたにとっちゃ、そんなもんだったのかよ。

 思わず口にしかけて、はっと口に手を当てる。
 俺は、何を言おうとした?今更、こんな、親に縋るような言葉を、言おうとしたのか?
 一歩後ずさる俺に視線を寄越し、女はまた口を開く。
「浮気、と言っても未遂に近いけれどね」
「、キス、してただろっ!?」
 
あまりに飄々と言うものだから、カッとなって思わず叫んでしまう。女は、俺の叫びに一瞬驚いたように目を見開いた。けれどすぐに、小さくため息を吐く。
「……そこを見ていたの。あれも未遂よ。プロポーズされてたけど、断ったわ。私が好きなのは、お父さんだもの」
「だったら何でっ」
「好きだからこそ、離れているのに耐えられなくて逃げたの。今では、自分がどれだけ最低なことしてたか分かってる。彼にも、お父さんにも。……それに、要にもひどいことしたと思ってるわ。ごめんなさい」
 
素直に頭を下げられ、俺はパニックになる。ふと、足が濡れているのに気付いて床を見れば、さっき放り投げたビールの中身が零れだしていた。そんなことにも、気付かない位、俺は。
 だって、おかしい。こいつはずっと、俺に向かい合うのを逃げていたはずだ。なのにどうして、今更。こんな真っ直ぐ、俺の目を見れる?
 何故だかその時、唐突に不安になった。何でか分からない。とにかく、怖くなった。変わらないと思っていたものが、歪んでいくような。そんな、怯え。
「今まで、ずっと要から逃げていた。その責めるような瞳を、避けることに必死だった」
「……」
 
誰に言うでもなく、呟かれる独白。それに返事を返す余裕は、俺にはない。あいつも、気にしてはいなかった。
「でも、果菜ちゃんがね、言ってくれたの」
「!!」
「逃げてるだけはいけない、って。方法を間違えてる、って。だから、覚悟を決めた。例え許されなくても、要と向き合おうって」
 
バクバクと、嫌な音がする。頬を汗が伝い、ぽたりと落ちた。滑稽だ。何で階段の下なんかで、こんな話。
 傍から見れば、優位にいるのはきっと俺で。でも、違う。
「果菜ちゃんは、強くて優しい子よ。人を憎むことはあっても、いつまでも引きずったりしない」
「やめろ」
「要と果菜ちゃんは、違うの。要の気持ちに、100%果菜ちゃんが応えるなんて、あり得ない。それに気付かないのなら――」
「やめろっ!!」
 
追い詰められてるのは、俺だ。
 歯を食いしばり、息も荒げて叫ぶのは、ひどく滑稽だった。意識の中、冷静な自分は俺を笑う。
 でも、止められない。これ以上、聞いていられない。
 あいつに背を向けていいのは、俺だ。あいつが俺に背を向けるなんて、あっちゃいけない。あっちゃいけないのに。

「……分かって、るよ」

 なのに、俺の口から零れたのは。あいつの言葉を肯定するような、弱々しい呟きだった。

 もう誰にも期待しないし、誰にも期待されたくなかった。期待したって裏切られるし、いつかは離れて行く。だから友達だって必要ないと思ったし、女だってこっちからは誘わない。全部忘れよう、そう思った。果菜への執着も、あいつへの憎しみも、全部。俺には必要ないものだと、そう思ったから。
 それなのに。無関心を装う裏で、あいつを完全に無視することが出来ない。捨てたはずの執着で、果菜をがんじがらめにして、縛り付けてる。
 期待しないと言っておきながら、それでも他人との関係を完全に捨てないのは?自分を気にしてくださいと言わんばかりの行動を、繰り返すのは?
「……馬鹿か」
 
俺はあの時から、時を止めている。あの冬の日から。親の浮気に絶望して、果菜の心変わりに嫉妬して。挙句の果てに、そんなの気にしてない、と知らんふり。
 最初から、知っていたのに。
 親だって男女だから、他の人を好きになっても仕方ないこと。最初好きだった人から、別の人を好きになること。そんなの、何にもおかしくない。なのにそれを相手のせいにして、勝手に傷付けられたって騒いで。
 その挙句、果菜を、ずたずたに傷付けた。

 俺の本当に欲しいものは、違うのに。
 泣き顔じゃない。悲しそうな、俯いた瞳じゃない。
 俺の心を癒すのは、いつだって、俺の側にあってほしいのは。
 その――綺麗な、微笑みだった。

 やり方を間違えれば、このままいけば、いつか果菜は離れていくのに。俺の側にいようと手を尽くして、心をぼろぼろに擦りきって。壊れて、どこかに行ってしまうのに。
 なのに俺は、間違いを認めることが出来なくて。全部果菜のせいにすれば楽だから、自分を正当化して。
 憎める訳ない。どんなに憎んでも、俺だけで心一杯になんて出来ない。そういう果菜だから、俺は、好きになったのに。
 そういう果菜だから、俺は、――自分を、大嫌いになったのに。
「……ちくしょう」
 
今更認めなければいけない、そんな状況に泣きたくすら、なった。だんっと、苛立ちを込めて近くの壁を殴る。そんな俺を、あいつはじっと見つめていた。
「……要がそういう風になった原因。果菜ちゃんが大きな鍵になっているのは確かだけど、私の存在だってあったでしょう」
「……」
「ひどいことをしたわ。恋愛は自由だと言っても、母親としてするべきじゃなかった。するとしても、きちんとお父さんと話をつけなきゃいけなかった」
 
ずるずる、壁に背中を預けてしゃがみ込む俺に視線を合わせるように、俺の目をじっと覗き込む。さっきまでの嫌悪感は、少しだけ収まった。それ以上に、自分が嫌で、仕方なかったから。
「許してほしいなんて、言わないし、言えない。でも、これからは話をしたいと思ってる。何年もかかってこれしか言えないって言うのも、情けないけれど。でも、最初は一言でいいから。要の考えてることを知りたい、と思ってる」
 
ぼんやりと霞む頭で、それを聞いていた。
 都合がいいな、とは思う。けれどひどく、目の前の女らしい、とも思った。
 許せる訳はない。そもそもの原因を作ったのは、確かにこの女だったから。それでも、何年もかけて答えに辿り着いた女が、ひどく羨ましかった。……俺はもう、そんなところ、通り過ぎてしまったから。
「ずるいことしたし、これからもそうだわ。正当化になるけれど、人間だから、失敗だらけでも仕方ない、そう思ってもいる。――でもそれは、要もでしょう」
「……は」
 
放心した俺に対する慰めなら、そんなに効かないものもあるまい。
 確かに、仕方ない、そう言える部分もあるだろう。
 でも、もう無理だ。今更、果菜に対し謝って態度を改めたとして、あいつが許したとして。俺はあいつの側でのうのうと笑ってるなんて、出来ない。過去の自分が、いつか許せなくなり。その時またきっと、果菜に当たるだろう。そして、背を向けられた時。自分でも、何をしてしまうか分からない。
「要は、果菜ちゃんと話すべきだわ。思ったこと、感じたこと、何も伝えていないでしょう」
「……別に、もう」
「遅いって言うの?だけどそれは、単なる逃げでしょ」
「っ逃げて何が悪いんだ!!」
 
淡々と並べられた言葉。あまりに冷たくて、思わず反論してしまう。すると、女は場違いなほど柔らかく苦笑した。
「逃げるのは、悪くないわ。でも、何もしないうちに逃げて、果菜ちゃんが喜ぶと思っているの」
「……あんたがさっき言ったんだろ。今のままなら、別の男のもんになるって。俺よりよっぽど良い男、捕まえられるんじゃねぇの」
 
話しながら、やはり心の中では狂気じみた欲望が渦巻く。離したくない、側に置いておきたい、その目が俺を見つめていなければ、許せない。
 だけどこれ以上。同じことを続け、いつか壊れる果菜を見る自信が、なかった。
 壊したいと思っていたのに。いざ壊れる時に、手を引いてしまう。
 それは、当たり前だった。
 俺にとって果菜は、ずっと一番、特別な存在だったから。
 俺の言葉を聞き、女は疲れたようにため息を吐く。そして。
「そりゃ、要より良い男なんて一杯いるわ。そういう相手に、果菜ちゃんはふさわしいと思う。でもね。果菜ちゃんは、本当にそれで幸せだと思うの!?」
「……そりゃ」
「あの子はね。私に、言ったのよ。『どんなにひどい人間でも、それが要なら好きになってしまう』って!!」
「……っ」
 
捲し立てられ、言葉をなくす。
 何で、果菜が俺を選ぶのか。それは、大学に入ってしばらく経っても離れないあいつを見て、ずっと不思議だった。離さないつもりではあったけれど、あいつからいつも擦り寄ってくる。それが、ずっと不思議だったけど。
「……んなの、昔の記憶があるからだろ。今の俺に、昔の俺を重ねてんだよ」
 
最終的には、いつだってその答えに落ち着いて。過去の自分にまで嫉妬する俺は、下らないと思う。
 でも。
「果菜ちゃんは、違うわ」
「……」
「過去と今を一緒にして、その人を見過ごす子じゃない。きっとあの子、本能的に分かってるのよ。要が、果菜ちゃんを必要としてること」
「……それは、単なる同情だろ」
「同情で一緒にいるほど、女って甘くないわ。逆を、考えたことないの?」
「……逆?」
 
不可解な言葉の羅列に、小さく首を傾げる。
 分からない。こいつが、何を言いたいのか。果菜にとって、何が大切なのか。俺は、どうしたらいいのか。
 迷う俺の前には、何もないのに。

「――果菜ちゃんが、本能的に要を必要としていること」

 なのに、どうして。そんな風に、俺にばかり都合のいい言葉を、ふりかざす。
「……ありえねぇ」
「どうして」
「あいつは、誰でもいいんだよ。誰が相手でも、ちゃんと幸せになれる」
「それを果菜ちゃんに聞いたの?」
「聞いてねぇ、けど」
 
真っ直ぐな瞳は、俺を捉えて離さない。
 止めて欲しい。
 あんただって分かってる癖に。
 俺が、あいつに何も出来ないこと。
「だったら聞きなさいよ。少なくとも、果菜ちゃんに謝るべきじゃない?」
「……」
「ひどいことしたと思うなら、謝りなさい。その後の果菜ちゃんの態度によって、身の振り方考えなさい。まだ人生二十年ちょっとでしょ?どうしてそんな頑なに決めつけるの」
 
ほら、と腕を引かれる。のろのろと身体を起こすと、そのまま玄関に連れて行かれた。黙ったままの俺を見ながら、女は口を開く。
「果菜ちゃん、待ってるよ」
「、何で知って」
「今日のこと、考えてくれたの果菜ちゃんだから。果菜ちゃんも、要と話したいと思ってる。ここで逃げたら、本当に何の関係もなくなるよ?それでいいの?」
 
――良い訳がない。
 でも、それでいいのかよ。あんたは、俺と果菜を引き離したかったんじゃねぇの?
 そうぼやくと、ふっと笑われて。
「今までのあんたなら、ね。でも、今は違うでしょ。後悔してるんでしょ、果菜ちゃんにしたこと」
「……後悔したって、消える訳じゃない」
 
ぼそりと呟くと、女ははっとしたように目を見開いた。そして少し、俯く。けれどしばらくすると、もう一度顔を上げた。
 真っ暗な廊下の中なのに。その目は、光って見える。
「消える訳じゃない、残るわ。でも、だからと言って何もしなくていい訳じゃない。そうでしょ?」
 
その真っ直ぐな瞳に。ふと、昔の記憶を思い出した。
 そうだ。いつだってこいつは、こんな風に人の目を見て話す人間だった。いつからか、俺もこいつも、目を合わせなくなったから気付かなかったけど。すぐに揺らめくけれど、強い光を、持っていた――。
 けれどすぐに視線は逸らされ、女は時計を見て顔を顰める。
「もう七時過ぎてる……。急いで。要が何を話すかはあんたの自由だけど、せめて謝らないと」
「、俺は行くとは言ってねぇっ、」
「良いから。後悔するのは後でも出来るでしょ!!」
 
強い口調で言い切られ、強引に玄関の外に追い出される。ぱたん、と目の前で閉まる扉を見て、大きくため息を吐いた。
 だから、何でこんな強気なんだよ……。
 頭を抱えて、しばしその場に佇む。
 辺りは真っ暗。目の前の道路を小学生のグループが走り抜け、味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。平和な、ありふれた光景。それは、いつかの自分と果菜に重なって。

『要、早くー、』
『ま、ってよ、果菜ーっ』
 
悪戯に笑い、早足で駆けていく果菜と、涙目で追い掛ける俺。
 ――どうしてだろう。
 ずっと、昔のことなんて思い出さないようにしていたのに。目の前に、自然と横切る。
 
俺よりずっと外で遊ぶのが好きで、やんちゃだった子供のころ。それが徐々に女らしく、小さくなった中学生。離れていた高校生のころは、どうだったのだろう。
 そして、大学生。相変わらず真っ直ぐで、けれど俺の態度に合わせるように、意地っ張りで頑固で――。
「……っ」
 
最後に見た、泣き顔。
 あの時無視した胸の痛みが、鮮やかによみがえる。けれどきっと、果菜は俺より痛かった。小さな背中は、ひどく震えていた。
 もしもあそこで、手を引いて抱き締めていたのなら。本当の気持ちを、告げていたのなら。
 今更、だ。そんなこと考えたって、過去は動かせない。変えられるのは、これから先だけだ。
「ちっ」
 
舌打ちしながら、足早に駅に向かう。
 あいつの言いなりになるのは、ひどく腹立つ。それに、果菜の反応を想像するだけで足が竦む。自分は散々拒否したのに、拒否されるのが怖い。馬鹿で、臆病。
 でも、……ここで変われるなら。




許されたいとは思わない。果菜に対する執着は変わらないけれど、もうその手は離そう。
そして、もう一度。
その微笑みを、もらえるように。
伝えなければいけない言葉を、携えて。
ポケットに入れておいた財布を取り出した。


  

inserted by FC2 system