ウソツキの恋人(4)


 そして、時間はとっぷり過ぎ、現在八時。雑木林の向こうに見える提灯の光は色とりどりで、綺麗。けれどあたしの心は、晴れない。携帯を確認しながら、ため息を吐いた。
「……何だかなぁ」
 
行きには輝いて見えた、翡翠色の浴衣。今は、暗く見える。
 やっぱり、来ないんだろうか。そんな思いが自分の中に生まれる。だって、要が陽子さんの言うことをそう素直に聞くとは思えないし。
 木々の隙間から覗く夜空を見上げて、大きくため息を吐く。鳥居にもたれて座っているけれど、やっぱり下駄は足が痛い。疲労を感じる。でも、帰る気にもならない。それはやっぱり、ほんの少し残る可能性に縋っているのかも。
「……」
 
ふ、と小さく苦笑する。『可能性』この言葉に何度縋ったか。
 いっそ、完全な友達に戻れれば苦しくなかったのに。冷たくされて、中途半端に優しくされるから堂々巡りになる。
 要の彼女にとって、あたしは多分、気に入らない存在だ。それは分かる。でも、離れたくなかった。だから、自分から距離を取るようなことはしなかった。それで嫌がらせを受けた時は、何度かある。一度なんて、水を掛けられた。その時。助けてくれたのは、要だった。

「何で!?何でその子を庇うのっ!?」
「……」
 
彼女に見向きもせず、要はあたしに近付き、タオルを貸してくれて。そのまま、あたしの腕を引いて、学食を出た。あれは多分、二年生の夏。蝉の鳴いた声が、やたら耳に響いたのを覚えている。黙ったままの要と、ただ着いていくだけのあたし。歩く度、ぽたぽたと雫がスカートから滴って、何だか情けなくなった。だけど不意に、要は振り返り。
「何で、怒らなかったんだよ」
「……だって」
「果菜を苛めていいのは、俺だけだろ」
 
無表情で吐かれた横暴な台詞に、顔が熱くなる。
 馬鹿みたい。こんなの、許しちゃいけないのに。あんたのせいだって、キレればいいのに。特別扱いのような台詞に、喜んでしまう。救いようのない、馬鹿。
 あたしの肩に掛かったままのタオルを要は黙って取り、頭を拭いてくれる。その手つきは、予想以上に優しくて。涙が、少しだけ零れた。水と混じってしまって、要は気付かなかったと思うけど。

 あの夏の日を思い出し、息を吐き出す。それ以来、要の彼女から嫌がらせを受けたことはない。あたしに何かすれば、要と別れる羽目になるって噂が立ったから。
 けど、そんなんじゃないのに。
 要からすれば、自分の物を勝手に誰かに傷付けられるのが腹立つんだろう。そう。あいつにとって、あたしは所有物。いて当然で、心はいらなくて。違う、ってそう言い聞かせても、やっぱり諦めと、切なさと。狂おしい程心をよぎる感情に、あたしは顔を伏せる。
 けれど、不意に影が過ぎり。
「っ」
 
――要!?
 心臓が、どきりとする。慌てて顔を上げると……。
「お、可愛いじゃん」
「何、どしたの一人で?ここら辺の子だよね?」
 
ニヤニヤ笑いの、茶髪の二人組。提灯をバックにしながら笑うその顔に、一気にテンションが下がった。
 馬鹿みたい。やっぱり、期待してるじゃない。ため息を吐いて、ゆっくり立ち上がる。意外と二人とも、背が高いのに気付いた。
「何か用ですか」
「ん?さっきから見てたんだけど動かないから、彼氏に逃げられちゃったのかなーと思って」
「俺らと一緒に回んない?」
「回りません」
 
淡々と話せば、予想通りナンパだったらしい。ため息を吐くのを堪えて、きっぱり断りの返事を口にした。あたしの返事に憶したのか、一人が少しだけ身体を引く。
 見た目で判断しないでよ。確かに、要のことがあって泣きそうな顔してたかもしれない。それを見て行ける、と思ったのかもしれないけど。あたしは元来、はっきりものを言うタイプだ。ナンパされても、大抵口で言い負かせる。今回もこれで去ってくれ、と思いながら顔を背けた。
「、」
「俺、気ぃ強い方が好み」
 
けれど。にんまり、もう一人が笑いながらあたしの手首を掴んでくる。不快な体温に、眉を寄せる。でも、そんなあたしの様子を気にするでもなく、くつくつ笑った。
「離してください」
「いいよね、強い女の子を困らせるの」
「っ人呼ぶわよ!!」
「どうぞご勝手に」
 
あたしが何を言っても、気にする様子がない。どうやらこいつ、相当慣れてるみたい。困った。こういうタイプ、会ったことがない。本当に大声出すのは、気が引ける。お祭りの空気を壊すのも嫌だし、ナンパくらいで?と思われそう。
 でも、嫌だ。ただ手首に触れられるだけでも、鳥肌が立つ。
 要なら、良かったのに。
 あの日のこと、悲しくはあっても嫌悪はしてない。要になら、全部あげる。欲しがっていないのを知っているのに、そんなことを考える自分に自嘲した。
「今夜だけでいいから、一緒しない?」
「触らないで」
「ますますイイね」
 
軽薄なその笑みに、反吐が出る。
 今夜だけ?絶対勘弁。不快感がますますアップだよ。
 黙って手を振り払おうとすると、もう一人に後ろから抱きつかれた。
「っ、!!」
「俺のこと、忘れてないー?」
「おい、俺が好みだって言ってんだろ」
「えー?いいじゃん、一緒にやっちゃえば」
「……好きじゃないんだけどな」
 
仕方ないか、そうため息を吐く目の前の男。
「っ何勝手に話進めてんの!?ふざけんなっ」
「はいはーい、黙ろうかぁ」
「やっ!!」
 
身を捩っても、押さえつけられ。悲鳴をあげようとすれば、口を塞がれる。逆光に揺らめく表情は見えなくて、だからこそ怖くて。知らず知らず、身体が震えた。そんなあたしを見て、男は口元を歪めて、顔を近づけて来る。
 怖い。やだ。要以外、やだ。絶対絶対、欲しくないのに――!!

「っぐぁ、」
 
――けれど、唐突に目の前の影は消えて。
 奇妙な叫び声と、痛々しい物音。知らぬ間に瞑っていた目を開けば。
「……っ」
 
ほろり、涙が頬を伝った。
 こちらを振り返らない、その背中。提灯で時折、眩しく映る綺麗な横顔。数か月会っていなかったから、髪が伸びていたりはしたけれど、それでも。
何があったって間違えたり、しない。
「かな、めぇ……っ」
 
悲鳴を上げて、大きな背中に呼び掛ける。祭り囃子に負けて、決して届くはずのない、その叫び。
 ――けれど、要は振り向いて。
 腕を掴んでいた男の腹に蹴りを入れると、その腕を離した。一目散に逃げて行く二人組は、あたしを見ることもなく。あっと言う間に、暗く感じる鳥居の下、あたしと要、二人きりになった。提灯が風で揺れ、ゆらゆらと二人の影が揺らぐ。要の顔にかかる影も揺れて、その表情はどうにも判別し辛い。
 でも。
「……」
 
一言も発しないまま、要がこっちに近付いて来る。気付けば腰が抜けていたのか、鳥居に背中をついたまま、あたしは座り込んでいた。よろよろと立ち上がれば、目の前に彼はもう迫っていて。
 ……なんとなく、怖い。最後に会った時のことももちろんそうだし。それ以上に、怒っている気がした。
 一瞬、光に照らされた瞳。その深い色の奥に、紛れもない怒りが隠されていたような気がして。気のせいだ、と言われたらそれまでなんだろうけど。とにかく、目を合わせづらいのは確かだ。
 俯いて、赤く擦り切れている足の指を黙って見ているあたし。けれど。
「、」
 
顔の右側につかれた、手。思わず逃げ道を探すように左を見れば、そちらも塞がれて。
 さっきと違う。ただ、閉じ込めるように手をつかれただけ。なのに、逃げられる気がしない。それは、あたしが、要という存在自体に捕われているからだろう。ふっと思って、苦笑した。
「――邪魔したか?」
「、」
 
不意に降りかかる、低い声。数か月振りに聞く要の声に、一瞬固まる。そんなあたしを見て、彼はくつくつと喉を鳴らして、笑った。
「図星かよ?」
「な、にを、」
「お前は本当に、目ぇ離すとすぐに男を誘うなぁ」
「なっ」
 
明らかに馬鹿にした発言に、顔が熱くなる。
 何それ。本気で言ってる訳?あたしが嫌がってたの、見てないとは言わせない。眉を顰めて、頭上にあるその顔を見据える。
「、」
 
同時に。あたしは、言葉を失った。

 どうして、その瞳に、傷付いた色が乗っているのか。

 覚えのない謂われで傷付けられたのはあたしで、怒るべきもあたしで。なのに、要の無色の瞳の奥には、確かに色んなものがうごめいていた。本人には見せるつもりはないのだろうけれど、長い付き合いで分かってしまう。
 ――心が、傷付いている。
 けれど要本人はその自覚もなく、皮肉げに口元を歪めた。
「何だよ?反論、するんじゃねぇの?」
「……い、やがってるの。見て分かったでしょ」
 
口から零れる言葉と、その瞳の色と。どちらを信じればいいかも分からなくて。とりあえず、話を進めるしかない。目を逸らしてそう口にすれば、要は小さくため息を零した。
「何で待ってた」
「メール、したじゃない」
「俺は返信もしてねぇんだぞ。それで、何で、」
 
口を開けばまた嫌味と文句の嵐。いつも通りのようで、いつもよりずっと饒舌。そこには見えない焦りがあるようで。いきなり、口を噤んだ要にあたしは顔を上げる。目が合えば、今度は要が目を逸らした。
 遠く響く、太鼓の音は、もう別の世界のことみたい。じっとりと汗ばんだ浴衣の感触が、やたらと重く感じられた。
「……果菜」
 
しばらく、二人黙り込む。かと思えば、要がぽつりと囁いた。ふわり、耳元に触れる吐息。頬に触れた要の腕は、微かに汗ばんでいて。そんな状態じゃないのに、心臓が痛くなった。
 けれど、それは。

「もう、終わりにする」

 ――次の瞬間には、別のものに。

「……は?」
 
終わり、って、何を。
 そう聞きたいのに、口から間抜けな音しか漏れない。それはきっと、どこかで分かったからだ。
「果菜を呼び出したり、……一緒にいること、を」

 要が、あたしの側から離れようとしていること。

「な、んで、今更……っ」
 
静かなその声に、思わずパニックになる。掻き消されて欲しい言葉ばかり、どうして聞き逃せない。
 そう、今更。離れるつもりなら、最初からそうしてくれたら。あたしから追いかけたら逃げる癖に、離れたら電話寄越したり側に寄ってきたり。中途半端に距離を詰めて、置いて。波の満ち引きのようなそれを繰り返して、今更、離れる?納得できないそれに、目の前にある要の胸倉をつかめば、目の前の人は抵抗すらしなかった。
「今まで悪かったな。もう、連絡もしない」
 
一方的すぎる。最低。
 そう、叫べればいいのに。何故かあたしは、唇が震えて何も言えなかった。
 ……どうして?要にとってあたしは、どういう存在?そんな簡単に離れて、それで要は、平気なの?
「謝り足りないっつうんなら、土下座でも何でもする。邪魔もしないから、好きに彼氏でも作ればいい」
 
まるで本当に、これで終わりみたいに紡がれる言葉。化粧をしているのに、目から涙が零れて止まらなかった。身体の芯から冷えて行く感じ。提灯は逆光となり、光が差すのは、無情に動く唇ばかり。
「だから、連絡先も消して、……俺のことなんか忘れろ」
 
さらりと零れる砂のごとく。その唇は、あくまで淡々と響く。あたしが話せる状態にないのを見越していたよう。力が抜けて要の胸倉を掴んでいた手は離れた。ぶらん、と力なく落ちた両腕。そんなあたしに目も向けず、要は背を向けて、今来た石段を降り始める。ぼんやりとその背中を眺めれば、すぐに暗闇に飲みこまれていった。

 ――これは、夢?
 
要に、キスした理由とか、今までのこととか。
 
全部全部問い詰めて、告白するはず、だったのに。

 あたしから、手を離すつもりだったのに。

 あんなに必死に掴んでいた彼は、するりと逃げていく。こんなにも、呆気なく。
 
手の平を握りしめれば、じりじりと焼け付くような痛み。ぱっと手を開けば、皮膚に深く刺さった爪のせいで血が滲んでいた。きっとしばらくは、消えない。……しばらくは。けれどいつか消えてしまう日は来て。
 だとすれば。
いつの日にか、消えてしまうのだろうか。
 
今はこんなに痛くて、忘れられないと思う。けれども。その内、傷はかさぶたでふさがって、痕も残らないほど消えてゆく。綺麗に、綺麗に。何もなかった、みたいに――。


  

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